⑨頭ケ島の集落(新上五島町) 病人の療養地に入植 仏教徒の開拓指導者と協力

 中通島中心部の有川から車で20分ほど東へ走り、赤く塗られた頭ケ島大橋を渡った。曲がりくねった道を下ると、白砂の浜と青緑色の海が美しい「白浜」という小さな集落が現れた。

 浜以外の三方は山に囲まれている。浜辺には砂丘に築かれた「キリシタン墓地」があり、古びた石の十字架がたくさん並び立つ。いま、白浜地区に住むのは2世帯だけだ。石だたみの道の奥に、黄色っぽい頭ケ島天主堂(国指定重要文化財)の姿が見えた。

 頭ケ島は中通島の東端に位置する周囲7キロの島だ。1981年に島の東部に上五島空港が整備されたのに伴い、橋が開通して中通島とつながった。1960年には37世帯、240人が住んでいたが、過疎化が進行し、現在は8世帯、15人に減っている。「昔は大家族ばかりで、にぎやかだった」。島で生まれ育ったカトリック信徒、松井義喜さん(80)が往時を懐かしむ。

 頭ケ島を含む中通島東端部の崎浦地域は「五島石」と呼ばれる良質な砂岩が採れる。幕末から昭和30年代には石材業が栄えていた。地域を歩くと、五島石の石だたみや石塀のほか、家屋の下部に板石を張った民家が見られる。国は2012年、一帯を「新上五島町崎浦の五島石集落景観」として重要文化的景観に選定した。

浜辺の砂丘に「キリシタン墓地」があり、集落の右最奥部に頭ケ島天主堂が立つ「頭ケ島の集落」

 ■移住相次ぐ

 頭ケ島は水と平地に乏しい。白浜地区には縄文時代の遺跡があるが、江戸時代はほぼ無人島だったらしい。江戸後期には、伝染病を患った人たちの療養地になっていた。

 幕末の1858年、人が近づかなかった頭ケ島に、有川の前田儀太夫が妻子を連れて乗り込んだ。くわを振るい、果敢に田畑を切り開く儀太夫の姿は、後に続く人たちを勇気づけた。儀太夫を慕う移住者が徐々に増え、10年後には16戸、130人が暮らすようになった。

 儀太夫は仏教徒だったが、移住者の大半は上五島でひそかにキリスト教への信仰を続けていた「潜伏キリシタン」だった。儀太夫はキリシタン信仰を黙認していた節があり、移住者と力を合わせて開拓を進めた。1867年、上五島キリシタンの指導的立場にあったドミンゴ森松次郎が有川から移住し、現在の頭ケ島天主堂付近に仮の聖堂を建てた。

 1868年11月、五島・久賀島で「五島崩れ」と呼ばれるキリシタン迫害が始まった。頭ケ島でも十数人の戸主が五島藩の役人に連行された。彼らは三角にとがった木材の上に正座させられ、ひざの上に大きな石を積み重ねて載せる「算木責め」という激しい拷問にかけられた。改宗を申し出た人は島に帰されたが、監視役のすきを突いて島外に逃げた。住民は離散し、島は再び寂れた。

頭ケ島にある前田儀太夫の墓(中央)。左にカトリックに改宗した子孫の墓がある。私有地のため一般の立ち入りはできない=新上五島町友住郷

 ■石の天主堂

 明治初期の1873年、キリスト教の信仰が解禁されると、逃げていた信徒が頭ケ島に帰ってきた。信徒たちは大正時代の1919年、新たな祈りの場として頭ケ島天主堂を建てた。設計施工は上五島出身の鉄川与助。建設費を抑えるため、白浜地区の対岸に浮かぶ「ロクロ島」などから切り出した五島石を用い、全国的にも珍しい石造りの教会になった。

 「鯛ノ浦小教区史」によると、信徒は天主堂建設のために全財産を供出した。昼は労働奉仕で建設工事に携わり、夜はイカ釣りをして生計を立てた。

 工事では大きな石を4、5人がかりで運び、一日に数個ずつ積み上げた。建設には10年を費やした。松井さんの父直吉さん(故人)も工事に携わった一人だ。石を担ぐ際に腰を痛め、晩年まで痛がっていた父の姿を松井さんは思い出す。

 日曜の朝に天主堂で祈る信徒はめっきり減った。現在は高齢の信徒6人が2組に分かれ、月交代で天主堂を掃除したり、祭壇に花を供えたりして、大切な祈りの場を守り続けている。「先祖が大事にしてきた教会だから、後を託された者が守らないと。できる限りはと頑張っている」。松井さんの声が、かれんな花模様で装飾された小さな聖堂の中に響いた。

 ◎メモ

 佐世保港から中通島の有川港までフェリー2時間半、高速船1時間20分。有川港からバスで頭ケ島教会バス停まで約30分。長崎港から同島の鯛ノ浦港まで高速船、奈良尾港までフェリーとジェットフォイルが運航しているが、有川港バス停までタクシーやバスで移動する必要がある。頭ケ島天主堂の見学は、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター(電095・823・7650)に事前連絡が必要。

 ◎コラム/キリシタンの天国

 浦川和三郎著「五島キリシタン史」(1951年)は頭ケ島について、「島には面倒な宗門改めもなく安全に信仰を続けられるから、上五島のキリシタンは頭ケ島をもって天国でもあるかのように言いはやし、われもわれもとこれに移住した」と書いている。

 ドミンゴ森松次郎が頭ケ島に移住すると、島には仮の聖堂が建ち、長崎の大浦天主堂からクザン神父が来てミサがささげられた。松次郎は五島のキリシタンの若者を頭ケ島に集めて教育し、伝道師の養成に努めた。「五島崩れ」が始まって松次郎が脱出するまで、頭ケ島はキリシタン信仰の拠点になりつつあった。

 頭ケ島は五島列島の東端にある。病人の療養地でもあったから、一般人が近寄りがたい土地だった。潜伏キリシタンは人目に付かぬへき地を選んで入植したが、それは信仰を続けるためのしたたかな「戦略的移住」だったとも言える。

                               (2017年12月15日掲載)

ドミンゴ森松次郎が住んでいた場所付近に建てられた頭ケ島天主堂

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