〈平和つなぐ〉原爆禍の記憶胸にプロへ 横浜高校・増田珠選手 

 昨年8月9日、兵庫県伊丹市の練習場。最高気温が30度を超えた真夏の太陽の下、スコアボードの大時計が11時2分を指すと、脱帽し、静かに目を閉じる一人の球児がいた。自身2度目となる甲子園出場を果たし、初戦に備える横浜高校3年の増田珠(しゅう)選手(18)だった。

 72年前のこの日。故郷の長崎は原爆禍に見舞われた。母校は、爆心地からわずか1キロほどの距離にある中学校。祖母は広島に投下された原爆の被爆者でもあった。

 「戦争中、当時の高校生は野球がしたくてもできなかった。特別な日に、自分の好きなことができる幸せをあらためて感じた」 昨秋、福岡ソフトバンクホークスから3位指名を受け、今年は念願だったプロ野球選手となる。

 「本当に一握りしか挑戦できない舞台。被爆で苦しんでいる方や、野球ファンに、夢と感動を与えられる選手になりたい」 早くもプロの顔をのぞかせた。■刻まれた原爆禍の記憶 全国屈指の強打者、増田選手の脳裏に刻まれた原爆禍の記憶は、少年時代にさかのぼる。

 「くうたんはなんで体が悪いの」。地元・長崎の小学校に上がったころ、「くうたん」と慕う祖母の久美子さん(74)の体調を案じて、父親の照久さん(45)に尋ねたことがある。体に傷痕があったからだ。

 年齢を重ねてから患った病気の手術痕だったが、久美子さんは2歳のころ、広島で被爆していたと教えられた。戦争中は実家の長崎を離れ、家族の仕事の都合で広島で暮らしていたという。直接、傷を負ったり、後遺症を抱えたりしているわけではないが、被爆者としてその後の人生を歩んできた。

 ただ、久美子さん自身から当時の話を聞いたことはない。「思い出したくない、と言っていたので。そういう話は、あんまりしたくないみたい」 その分、資料や語り部から被爆の実相を学んだ。あまりの高熱に、一瞬で身体が炭化した「黒焦げの少年」。爆心地付近で、熱線の直射を受けて人影の部分だけ黒く残った壁。熱線で焼けただれ、真っ赤になった背中。小中学生のころ、自宅から2・5キロほどの原爆資料館に足を運び、展示された写真を通して悲惨さを目に焼き付けた。被爆体験者の講話からは、惨状に思いを巡らせてきた。学校の図書館では、「はだしのゲン」を手に取り、全巻をむさぼり読んだ。

 「たぶん、おばあちゃんもこういう現場にいたんだなって」。故郷に刻まれた戦争の記憶を通し、久美子さんの思いを自分なりに受け止めてきた。■「8月9日は野球の日?」 平和を思う気持ちは、神奈川の地で迎えた夏を経て、一層強くなる。

 プロを目指し、全国有数の強豪の門をたたいたスラッガーは、高校1年の8月9日、いつものようにグラウンドにいた。甲子園出場を逃し、目の前の練習に精いっぱいでいると、気づけば原爆が投下された午前11時2分が過ぎていた。

 長崎で過ごした中学時代までは、8月9日は夏休み期間中でも全校登校日だった。投下時間には街中にサイレンが響き、全校で静かに黙とうしてきた。

 「長崎にとってとても大事な日。でも、意識していないと、こんなにも普通に過ぎてしまうんだなって」 学校の友人に聞いても「8月9日? 野球の日でしょ」と言われた。

 「神奈川の高校生は知っている人のほうが少ないのでは。8月6日の広島は知っているのに、長崎は知られていないのが残念。知っている人間が伝えていかないと」 サイレンが鳴らない初めての夏が、被爆地出身という思いを強くさせた。

 甲子園に初出場を果たした高校2年の8月9日は、直後に試合を控え体を動かしている最中に、いったん練習をやめて静かに祈った。そして、高校生活で最後となった昨夏。増田選手の黙とうは、グラウンドでのプレーとともに多くのメディアから注目された。■野球ができる幸せ 増田選手は今、野球ができる幸せを全身で感じている。

 「12球団一の施設と説明されたので、楽しみで」。昨年12月に、入団が決まった福岡ソフトバンクホークスの練習施設を視察し、こう声を弾ませる。今月9日に入寮を控え、トレーニングに励む日々だ。

 両親が名付けた「しゅう」という名前には、真珠のような宝物という意味が込められている。名前の意味の通り、長崎を離れてからも家族は、大舞台には必ず応援に来てくれた。

 「しゅう君、けがはせんようにね」。元気な体で野球ができることを願う久美子さんからはいつも、こう声を掛けられるという。

 「自分のプレーを見て、5年でも10年でも長生きしてほしい。元気なうちにおばあちゃんからも、戦争の話を聞いてみたいですね」 プロに挑む名門校の元4番バッターは、一人の高校生の顔に戻って笑った。

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