湖底に沈んだ古里、長く伝えたい 相模原・勝瀬集落の地図をパソコンで作り直す

 湖底に沈んだ集落の記憶を長く伝えていきたい−。約70年前の1947(昭和22)年に完成した相模ダムによって誕生した相模湖の湖底に沈んだ旧日連(ひづれ)村勝瀬集落(相模原市緑区)の地図を、同湖で観光船を運航する勝瀬観光の小野澤陸雄社長(74)がパソコンで作り直し、来訪者への説明に役立てている。

 相模ダムは38(昭和13)年に県議会で可決された県の相模川河水統制事業として横浜、川崎市への工業用水と電力供給、相模原地区の水田の水供給を目的に建設され、戦後の47(昭和22)年に完成した。小野澤社長らによると、水没した勝瀬集落には補償対象だけで85戸が暮らしていた。当初は「河水統制事業絶対反対用地不売同盟」を結成して反対したものの、半井(なからい)清県知事が現地を訪問して説得するなどして、住民らが反対運動の看板を下ろすことになったという。

 住民は代替地として、故郷に似た土地を提供することなどを条件に掲げた。小野澤社長によると「後ろに山を背負い、前が畑と田で、その向こうに川が流れている」という条件に当てはまる地として、当時の海老名村国分地区と大谷地区の一部が選ばれた。27軒が海老名に移り、地名も「勝瀬」と変更。水田用地として現在の海老名市役所周辺、居住用として離れた丘陵部の2カ所が提供された。このため、現在も海老名市勝瀬地区は飛び地のように2カ所に分かれている。八王子と日野にも約20軒ずつ、また完成した相模湖周辺には十数軒が移ったという。

 ダム完成翌年の48(昭和23)年、旧住民のうち70人ほどが出資して、観光船運航の勝瀬観光を創立した。小野澤社長は43(昭和18)年に旧勝瀬集落に生まれたことから、水没以前の集落の記憶はない。だが、旧集落の様子を豊富な写真入りで同年に刊行された「勝瀬紀念写真帳」などさまざまな資料や旧住民の話などから、勝瀬の記憶を観光船の乗客らに話し続けている。写真帳に収められている各戸の場所と戸主名や屋号などが描かれた地図を、上を北にして書き直し、パソコンで分かりやすく整備した。

 「勝瀬地区の旧居住者会の総会を毎年行っており、2017年は26人が集まった。だが、水没前の集落を知っているのはもう5人ほどしかいない。最近は地元の小学生や、歴史愛好家、女性サークルなどが水没した集落の話を聞きに来ることも増えた。この地図を活用しながら、移住させられた住民の古里に対する思いを風化しないように伝えていきたい」と話している。

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