真理と美を愛する精神~民芸運動の父・柳宗悦~ 民衆工芸の美を追求した<知の巨人>

若き日の柳宗悦(我孫子時代、バーナード・リーチ作、提供:我孫子市教育委員会)

柳宗悦と手賀沼

戦前、手賀沼周辺(今日の千葉県我孫子市)の閑静な高台に著名な作家、芸術家、学者らが居を構えていていた。「手賀沼文化人」である。大正期、東京から常磐線で1時間足らずの田園地帯に自然豊かな湖畔が残されているとあって、東京の作家、画家、知識人らが「都会の喧騒から離れた思索の地」として目をつけた。彼ら「手賀沼文化人」を思いつくまま挙げてみると、民芸運動の指導者・柳宗悦(やなぎ・むねよし)と夫人の声楽家・兼子、柳の伯父にあたる東京高等師範学校(東京教育大学を経て現筑波大学)校長・柔道家・嘉納治五郎、「白樺派」を代表する作家の志賀直哉、武者小路実篤、中勘助、滝井孝作、イギリス人陶芸家バーナード・リーチ、「朝日新聞」記者・文明評論家杉村楚人冠など、日本の代表的作家や思想家、芸術家たちがそろっている。

彼らの精神に通底するものは知識人としてのヒューマニズムまたはリベラリズムと言っていいだろう。この水と緑の豊かな湖畔は彼ら知識人に静寂と思索の場を与え、代表作や秀作を生ませたのである。

「手賀沼文化人」の中で、私にとって、その豊饒な多方面にわたる天才性ゆえに最も論じにくいのが柳宗悦(1889~1961)である。だが、柳宗悦の高邁な哲学的かつ芸術的精神は後世に伝えるべきである、と考える。宗教哲学者、思想家、美学者、文学者そして何よりも「民芸運動の父」・柳宗悦。

宗悦は、1914(大正3)年9月初旬、26歳の時、手賀沼湖畔へ移住し、1921(大正10)年3月まで過ごした。嘉納夫妻は、おいの柳宗悦に、我孫子はすばらしい所だからぜひ移り住むといいとさかんに勧めた。嘉納の姉が柳宗悦の母であり、大きな影響力をもつ伯父であった。しきりに勧めるので、宗悦夫妻は1914年9月、手賀沼を眼下に望む高台へと引っ越した。結婚して7カ月目であった。そこは嘉納の別荘の向かいにあり、柳の姉直枝の別荘であったが、直枝が陸軍谷軍令部長と再婚したため空き家となり、そこを借りて別荘の留守番代わりに住むことになった。

柳は「白樺」の中で書いている。
「某兄
 茲(ここ)へ来たことは自分にとっていい決行だった。此土地は凡ての無益な喧騒から自分を隔離さして、新しい温情を自分に贈っている。自分の正常を育む上に自然はその最上の風調を示してくれた。今では水も丘も自分の為に静かに横たわっている。家は手賀沼を臨んで木に囲まれた丘の上に立っている。朝日は特にうるわしい光と熱とを茲に送る事を愛している。・・・(以下略)」

柳宗悦邸宅「三樹荘」跡(我孫子市、提供:高崎氏)

我孫子での活動は、新進気鋭の哲学者宗悦にとってかけがえのないものとなった。「白樺」同人として西洋美術の積極的な紹介に努め、特にロダンとの交流により手に入れた彫刻は、朝鮮半島で教員をしていた浅川伯教(のりたか)を我孫子に導き、民芸運動の基礎となる朝鮮陶磁器「秋草文面取壺」との出会いをもたらした。1916(大正5年)8月、柳宗悦は初めて朝鮮半島を旅行した。27歳であった。その2年前の1914年9月、たまたま朝鮮の小学校の訓導をしていた浅川伯教が、ロダンの彫刻を見るため我孫子の柳邸を訪ね、土産として持参した数点の李朝焼物に柳は深く感動した。名もない工人の土器にこそ人間に温かみや高貴さが感じられ、これは一度朝鮮に渡って調べてみる必要がある、と決意した。
柳ほど朝鮮の民族と芸術品に理解を示した戦前の文化人はいない。
                ◇
イギリス人陶芸家バーナード・リーチとの絆を深め、同浜田庄司との出会いもここ我孫子の地だった。「白樺」同人である志賀直哉、武者小路実篤を我孫子に導き、生涯にわたる絆をここで結んだ。我孫子の地は、宗悦にとって妻兼子との新婚時代を過ごした地であるとともに、初めて自らの家庭を築いた地、つまり家族の絆を築いた場所である。柳宗悦にとって我孫子は「出会い」と「絆」の地であった。

晩年の柳宗悦(日本民芸館にて、提供:我孫子市教育委員会)

柳宗悦の精神と実践

哲学者、民芸運動の創始者柳宗悦は、東京に生まれた。父は海軍少将で数学者の柳楢悦(ならよし)、母は勝子(嘉納治五郎の姉)。学習院高等科のころ、同級生と同人誌「白樺」を創刊した。紙面の美術面を主に担当し、宗教哲学、心霊学についての論文を相次いで寄稿する。「科学と人生」(1911)を東京帝大哲学科在学中に刊行する。1913年、同大哲学科を卒業し、翌年、東京音楽学校(現東京芸大)卒の声楽家・中島兼子と結婚する。恋愛結婚であった。

柳は学生時代からイギリスの詩人・画家ウィリアム・ブレークに深く傾倒し、1914年、「ウィリアム・ブレーク」を出版する。神秘主義の研究は宗派を超え「宗教とその真理」(1919)、「宗教的奇蹟」(1921)、「宗教の理解」(1922)、「神に就いて」(1923)を経て、戦後、仏教論「南無阿弥陀仏」(1955)に向かい、初期のキリスト教から仏教(主に浄土真宗)に関心が移る。両者に通底するものを追い求め続けたことは後年の「神と仏」(1956)に明らかである。

1909年、柳は朝鮮・李朝の壺に心をひかれ、やがて朝鮮在住の浅川伯教と巧の兄弟と親交を結び、朝鮮を数次にわたって旅行し、日本の朝鮮政策を批判する文章を発表した。1922年には光化門取り壊し反対の文章「失はれんとする一朝鮮建築のために」を雑誌「改造」に発表した。1919年の朝鮮の独立運動弾圧、1923年の関東大震災での朝鮮人虐殺を悲しみ、1924年にはそれまで集めていた朝鮮美術を携えて京城景福宮緝敬堂(しゅうけいどう)に朝鮮民族美術館を開設した。

李朝の工人の造った陶磁器の美しさに目覚めた後、柳はひるがえって日本の日常雑器の中に、無名の工人のみごとな作品を見出した。雑器を創り出した人々の無心の仕事、雑器を日常生活の中に使うという「用の美」が、柳に信仰と結びついた生活美学への構想を抱かせた。それは千利休以来の茶道の受け継ぎであり、現代の茶道の改革への提言でもあった。「茶と美」(1941)、「茶の改革」(1958)へ連なる仕事の系列である。

1926年、陶芸家浜田庄司、同河井寛次郎とともに高野山を旅して「日本民芸美術館」設立の構想を得て、設立趣意書を発表した。すぐれた器の収集や実作の調査に乗り出し、1931年に雑誌「工芸」を創刊して1949年までに120冊を出して終わった。これらの冊子は、軍国主義に転落する日本にあって、柳の守ったけじめを示している。大原孫三郎から寄付を得て1936年に日本民芸館を創設した。

その後、日本各地に民芸館が出来、民芸風は各地のみやげ物店や料理屋のスタイルに影響を与えた。その間、初期大津絵、木喰、円空仏、沖縄の民芸の研究への道を開いた。敗戦後の1948年京都の相国寺で行った講演「美の法門」は美と醜の区別を超えて世界を見渡す視野の成立を説いて、仏教の信仰に根を下ろす美意識のあり方を示した。これは「妙好人因幡の源左」(1950)、「仏教と悪」(1958)、「心偈」(1959)に連なる仕事である。
救いを求める庶民と仏教の在り方を常に問うた。

最後に、柳がよく引用したギリシャの詩人ソフォクレス作の悲劇「アンチゴーネ」中の名せりふを紹介する。
「私は愛のために生まれました。憎しみのために生まれたのではありません」。柳は<愛のために、そして、愛の別形である叡智のため>に生きた。
また「見る者を作家にさせる品(芸術品・民芸品)より美しい品はない」、「人の心を美しくさせずして、どうして品物が美しくなろう」とも語った。

参考文献:「柳宗悦全集」、鶴見俊輔氏「論文」、筑波大学附属図書館文献、我孫子市教育委員会資料、「白樺派の文人たちと手賀沼」。

(つづく)

 

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