10年前のあの頃、君は期待されていた…消えた天才の今

正月に『消えた天才』というテレビ番組を見た。かつての放送では遠藤3兄弟の長男・拓哉氏も出演した番組だ。

トッププロとして活躍している人たちも若いころには勝てなかったライバルがいて、彼らがその後どうなったのか?を追跡した番組だ。

Qolyでも時折こうした企画は行っている。前回は「2007年の「神童」50名、今はどうしている?」を行った。

2017年も終わった今だからこそ10年前の2007~2008年頃に期待されていた選手たちはどうなったのか補足や最新情報をお届けする。

成功組

10年前に有望株とみられ成功した選手たちは2007年のU-20W杯で得点王に輝いたセルヒオ・アグエロを筆頭にアンヘル・ディ・マリア、U-17W杯MVPのトーニ・クロース、ギャレス・ベイル、アレクシス・サンチェス、イヴァン・ラキティッチ、セオ・ウォルコットらがいる。ギャレス・ベイルがまだサイドバックでプレーしていたころだ。

また、一世を風靡したという意味では、ミランでプレーしたアレシャンドレ・パト、マンチェスター・ユナイテッドでプレーしたアンデルソン、メッシの後継とみられていたボヤンらも成功と言ってよいだろう。

では、名前を聞かなくなってしまった選手たちはどうなったのだろうか?

【次ページ】U-17W杯得点王

マコーリー・クリサンタス

ナイジェリアのクリサンタスは2007年のU-17W杯で7ゴールを記録を残し得点王に輝いた。

かつてアフリカのユース代表メンバーはプロの世界で全く活躍ができない時期が続いていた。だが、クリサンタスならばそうした不安はないだろうと見られていた。

ナイジェリアのアブジャからドイツのハンブルガーSVへ加入したクリサンタスはBチームでプレーした後にカールスルーエ、フランクフルトとローン先で結果を出した。

だが、トップチームでの出場機会はなくラス・パルマスへ放出されてしまう。そこでも結果を出しトルコのシヴァススポルへ移籍したのがけちのつけ始め。AEKアテネ、スペイン2部レウスを経て今季はギリシャ1部のラミアに所属していたが2017年12月にチームとの契約を解消した。

他のアフリカの選手が全く結果を残せずに2部、3部と落ちていくのに対して結果はまだ残している方で、もうひと踏ん張りしてほしいところである。

【次ページ】U-17W杯得点ランク2位

ランスフォード・オセイ

そのU-17W杯でシルバーシュー、つまり得点ランク2位だったのがガーナ代表FWオセイである。

ケスベンという母国ガーナのチームでプレーしており、2008年にマッカビ・ハイファ(イスラエル)に引き抜かれたが良かったのはそこまで。

グラナダ、トゥウェンテとそれなりのチームにも属したが出場機会はなく、自らも「キャリアの中で最も恐ろしい瞬間だった」とトップチームの出番がなかったグラナダ時代を語っている。

RoPSからの期限付き移籍で2016年にFCサンタクロースでプレーしたのを最後に所属がない状態だ。

スピードのある選手だったが、自身曰くそれゆえにヨーロッパではサイドで起用されることが多かったのだという。結果を残さないとストライカーへ起用されないという問題だ。

ただし、オセイは、元々代表では得点をとるがクラブレベルでは得点の多い選手ではなくそうした点が災いしたこともあるだろうか。

【次ページ】10年前の雑誌でナンバーワンタレント

サディック・アダムス

2008年にアトレティコ・マドリーへ引き抜かれたガーナの元・至宝。

2007年11月に刊行された『World Soccer』誌のトップ50若手選手特集で「1番目」に記述されていたのがアダムスであった。

だが、アトレティコ・マドリーではBチームで1シーズンプレーしたのみでセルビアのヴォイヴォディナへと旅立っていった。

以降、アダムスは2シーズン以上同じチームにいたことがない。チュニジアのエトワール・サヘル、サウジアラビアのアル・アンサル、ガーナのベレクム・チェルシーと世界を旅しながらサッカーを続けている。

彼の凄いところは世界でもほとんど国交がない北キプロスでプレー経験があることと、何と昨年ガーナ代表にデビューしたということだ。アサンテ・コトコで活躍し、10月のFAカップ・ハーツ・オブ・オーク戦ではハットトリックも決めた。

遠回りはしたが、さすがは元ナンバーワンと称された才能である。彼が良かったのはFWでも他の選手と違いドリブルやパスで味方を生かすのが得意で攻撃面の能力に幅があることだろうか。そのためにかつてのような圧倒的な身体能力やキレがなくてもプレーに円熟味が出せたのではないかと推測する。

【次ページ】メッシの後継

ディエゴ・ブオナノッテ

2006年に17歳にしてリーベル・プレートのトップチームにデビューした男。デビュー当時は身長157cmしかなくその身長や技術もあいまってリオネル・メッシの後継とみられたが、そのメッシとは1歳差。今では「ドワーフ」の愛称で落ち着いている。

2008年の北京五輪優勝メンバーでメッシ、アグエロ、ディ・マリアらとチームメイトだった。

転機となったのは2009年の交通事故だ。両腕と右肩を骨折し全治7か月、同乗した友人は死亡した中で九死に一生を得たが、彼には過失致死傷の疑いがかけられるなど翌年のワールドカップどころではなくなってしまった。

それでも、その後マラガ、グラナダ、パチューカなどなかなかのキャリアを形成している。

AEKアテネではギリシャリーグ、ウニベルシダ・カトリカでもチリリーグ優勝を経験しており、今季もカトリカで主力として活躍している。小さい体に大きな才能があったことは疑いようがない。

【次ページ】アシカ

ケルロン

日本の藤枝MYFCでプレーしたことで知られるのがブラジルU-17代表であったケルロンである。

2005年のU-17コパ・アメリカで得点王と最優秀選手賞を同時に獲得し、何よりもボールを頭にのせてドリブルする「アシカドリブル」が話題になった。そのため愛称も「アシカ(Foquinha)」とそのまんまである。

2008-09シーズンからはイタリアのインテルに加入。しかし、トップチームでの出場機会はなく、キエーヴォ、アヤックス、パラナなどへローンに出され最後は放出の憂き目にあった。

藤枝退団後はアメリカ下部のマイアミ・デイド、マルタのスリエマ・ワンダラーズ、そして昨年はスロベニアのスパルタク・トルナヴァでプレーした。

今夏フリーになっていたが2017年10月20日に現役引退を発表した。本人は29歳でキャリアを終える原因になったことについて怪我をあげている。事実、膝だけで6回、足首で2回手術を経験している。

現在は妻と娘がいるようで新しい職業で新しい道へ進んでいく、とのことである。

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