平和つなぐ・善意の人 横須賀・田浦中に匿名寄付

 横須賀市立田浦中学校(神奈川県横須賀市船越町)に、半世紀以上にわたって毎月のように届く匿名の封書がある。数千円の寄付金が同封され、差出人はいつしか「善意の人」と呼ばれるようになった。平和な日本を世界の手本にしてほしい−。一文字一文字を丁寧にしたためた手紙には生徒たちを見守る温かなまなざしと非戦の願いがにじみ、次世代へのメッセージであふれている。

 「秋の果物が庭々で少しずつ大きくなっていくのが見えます」「次に降る雪はいつになるのでしょうか」 1960年代半ば、田浦中には季節や時事の話題がつづられた手紙が届くようになった。

 封書にはいくつかの特徴がある。郵便番号が5桁の旧式封筒。貼られているのは、東京五輪(64年)や大阪万博(70年)など昭和中期から後期にかけて流行した記念切手。大学ノートの切れ端やけい線だけが引かれた簡素な便箋には、鉛筆書きの変わらぬ筆跡の文字が走る。そして、決まった文句で結ばれる。

 〈同封の物、何かの役に立てていただければと思います〉 うどん1杯15円程度だったころから毎月数千円が添えられ、最近は卒業式で会場を彩る花の費用に充てられている。66年には無名の善意を語り継ごうと「善意の塔」を校内に建立。地球を思わせる球体の上で平和の象徴であるハトが翼を広げたデザインで、いまも正面玄関前にたたずむ。

 差出人の正体は謎に包まれている。消印は横須賀や横浜を中心に各地を転々。勤務経験のある教員らは「学校の様子を見に来ているような文面があった。身近な人ではないか」「親子2代にわたっているのかもしれない」などと想像を膨らませる。

 田浦中の創立70周年を記念して昨年12月、封書が届き始めた当時の美術科教諭を務め、善意の塔をデザインした慶長敏彦さん(83)が講演した。

 田浦中が旧海軍の施設跡に開校したのは47年。戦後間もなく、日本中が貧しかった時代だ。同時期に横須賀市内で中学生だった慶長さんは全校生徒約470人を前に当時の体験を振り返った。

 弁当を忘れたから家に帰ると言い残し、畑の隅で昼食時間が過ぎるのを待つ同級生がいた。修学旅行の行き先は家計の負担を考えてか、費用の違う二つの選択肢があった。

 慶長さんは推測する。「善意の人は中学時代に苦労した人ではないか。田浦中の発足当時に入学した生徒なのかもしれない」

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