10月に入り、朝晩はめっきり冷え込むようになった。札幌市のマンションに1人暮らしの吉川修司は2017年、定職に就かないまま50歳の“大台”を迎えた。節約のため、暖房はなるべくつけない。両親が残してくれた蓄えによって、何とか生計を立てている。
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幼稚園のころから集団になじめなかった。小中学校では1人でいることが多く、安心できる居場所は図書室だけ。登校するふりをして、マンションの階段に一日中、身を隠していたこともある。
大学を卒業したのはバブル絶頂期。周りが次々に企業から採用内定をもらう中、就職活動は一切しなかった。母が病気で亡くなったショックもあるが、会社組織に属する自分の姿を想像できなかった。
いくつかのアルバイトを経験し、非常勤で運送関係の仕分け業務に。「何年もいるのに、新しく入ってきた人より仕事ができない」と上司に叱られ、年下の後輩からもばかにされた。03年2月に辞表を提出。もう限界だった。
日中、家にいると、父に大声で怒鳴られた。「これからどうするんだ」「人生をどぶに捨てているんだぞ!」。公務員として定年まで勤め上げた昭和一ケタ世代。その父も11年に他界した。
国の就労拠点「地域若者サポートステーション」に足を運んだのは39歳の時。履歴書の書き方、スーツ着用での模擬面接など、6カ月のプログラムを受けた。「目の前に迫る40歳という年齢が、ものすごく大きなプレッシャーだった」。だが就労という「枠」にはめられそうな気がして、体が拒否反応を示した。
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「今、何をやっているの?」。友人や親戚に聞かれるたびに、吉川は「自分は何者なのか」が分からなくなるという。
30歳を過ぎたころ、職場の人間関係に悩み、NPO法人「レター・ポスト・フレンド相談ネットワーク」の田中敦(52)に相談。仕事を辞め、その後は理事として、ひきこもり支援のボランティアをしている。
活動にやりがいは感じているが、父が望んでいたのは、一般の企業で働き、賃金をもらうという“普通の”生き方だ。
今、50歳。「この年齢になるまで何度もチャンスはあったのに、がむしゃらになれなかった」。わだかまりを抱えたまま、1人歩いて行く。(敬称略)