【特集】ネット時代、「紙」の辞書へのこだわり

広辞苑10年ぶり新刊の意味

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1月12日発売の広辞苑の改訂版・第7版(右)と旧版

 「広辞苑によると…」。記事で時々出会う表現だ。紙の辞書の代表格、広辞苑の最新版(第7版)が10年ぶりに刊行、今月12日から書店で一斉に発売された。60年余り前の初版から時代とともに変化する言葉の道しるべとして確固たる地位を築いた書籍だ。デジタル隆盛の時代、ネットで言葉を簡単に検索できる世の中にあらためて紙の存在感を示すことができるかどうか。そして、長引く不況にあえぐ出版界の福音となるのか。広辞苑の編集担当者に第7版刊行の意義を聞いた。(共同通信=柴田友明)

 ▽ネットとの違い

 昨年12月18日、日本記者クラブで岩波書店辞典編集部副部長、平木靖成氏の講演・記者会見が行われた。発売前に編集担当者が辞書づくりを直接語る機会にメディアの関心は高く、会場はほぼ満席。そんな中、筆者は講演後の質疑応答であるやりとりに注目した。

 「次の改訂(第8版)はあると思いますか」。ある出席者がシビアな質問で恐縮ですと前置きして尋ねた。ネットで調べるとだいたい間に合う時代でウィキペディアも参考にすることができるが、今後も紙の辞書を作り続けますかという問いかけだった。

 平木氏の答えは要約するとこうだ。少なくとも第7版に関しては紙を買っていただけるお客さまが一定数はいるという確信を持った上で出す。それが10年後、紙媒体の状況がどうなっているか。第7版の販売実績を見極めてからでないと何とも言えない。ありがたいことに世の中、「広辞苑によれば」とよく引用してもらえる。ある言葉を説明したいときにひと言で表したい、そういう場面はずっと続くでしょう。「ウィキペディアの何日バージョンによれば」では引用しにくいと思う。

 第7版の刊行に当たって岩波書店は「『広辞苑』の辞典としての特長は、その語釈が簡潔かつ的確であること。これこそが、長くなりがちで要点をつかみにくいインターネット上の表現との決定的な違い」とPRしており、平木氏もその編集方針にのっとった回答だった。

 ▽次の刊行は…

 広辞苑の部数は1991年刊行の第4版は220万部だったが、その後、改訂の度に半減している。98年の第5版は100万部、2008年の第6版は40万部。デジタル化の波に手をこまねいていたわけではない。岩波書店はCD―ROM版、電子辞書、携帯スマホでの検索とネット対応を含め時流にも対応してきた。

 それでも紙の辞書は市場全体としては縮小を続けている。「紙の辞書は死んだ」とささやかれ、大手出版社の中には、辞書の編集部を無くしたり、紙を売るより電子辞書などの中身を提供することで得られる収益が大きいとネット辞書に移行したケースもある。それだけに地道な作業を続け、紙にこだわった広辞苑改訂版に取り組んだことは同業他社からも高い関心を集めている。

 筆者は今月9日、岩波書店を訪れて、辞典編集部の平木氏にインタビューした。それでも紙にこだわる理由を直接聞きたかったからだ。

 ―以前、第6版を作っているときにすでに今回の第7版を想定して準備を進めていると聞いた。今回の販売実績は別として新たな第8版の準備、継続作業をするというお気持ちはあるのですか。

 「第8版をやらないつもりで、ある時点でやっぱり改訂をやりましょうといっても(急には)できない作業です。仮に第8版が出せなくても準備だけは進めておかなくてはならないと思います」。

 ―電子媒体とかネットでの検索の在り方が発展する中で基本、紙にこだわっていくということですね。

 「そもそも出版社ですので、紙の本を出すというのが本業なんですよ。電子媒体だけで採算を取るというのは今のところなかなか困難です。紙を出さないという選択肢の方が想像つかないと思っています」。

 ―BtoBでなくて、あくまでカスタマー対応を重視するということですか。

 「これまで実際に使われるお客さまにお金を払ってもらうかたちできています。ネットで無料ということは避けたいという方針です」

 ―紙の優位性は「一覧性」、調べる言葉以外にあらゆる言葉を一覧することができるという点にあると思います。こういう機能が将来、ネットや電子媒体でも取り入れられる可能性があるかもしれません。

 「可能性で言えば、それこそ電子メディアは日々すごく発展しています。一覧性の機器がでてきてもおかしくない。そうなると紙よりも使い勝手がよく、かつ探した項目がクローズアップされつつ一覧性も備えるということになる。そうすると一覧性だけで紙の優位性を言い続けることはむずかしくなるとは思います」。

 ▽「ぬめり感」

 長い時間をかけて辞書づくりをする人々の仕事や日常を描いた小説「舟を編む」(光文社)。作家三浦しをんさんの作品で2012年に本屋大賞を受賞したベストセラーだ。映画化されて、松田龍平さんや宮崎あおいさんらが出演した。

 小説も映画でも主人公の男性編集者が製紙会社から届いたサンプル用紙に触れて叫ぶシーンがある。「ぬめり感がない!」。指の腹が吸い付くように滑らかに一枚一枚めくれる触感をぬめり感といい、それがないと辞書には適さないことになる。

 確かに辞書を手に取り、ページをめくる時はある種の快適さを感じる。言葉を探す手触り、その過程は時間性とともに、まだ電子媒体が勝てない領域だ。

 広辞苑第7版は3216ページ、第6版より新たに1万項目を追加、140ページ増やしたが、さらに薄い紙を開発して本の厚さは同じ8センチに収まるように作られた。紙に酸化チタンがまぶされ、紙の裏の印刷部分が見えないように工夫された最先端技術の粋を尽くしたとされる。

 平木氏に案内していただき、岩波書店7階の辞典編集部を訪れた。棚には初校から何度も校正刷りされた大型用紙がぎっしりと積み重ねられていた。最盛期には10数人で没頭していく作業の残り香をかいだ気がした。

 世の中の言葉の変化、社会への定着を吟味して、一読して意味を把握できるように、洗練した語釈にこだわっていく。そういった辞書づくりの営みは消えることはないと思える。

 平木氏から聞いた話で面白いと感じたのは紙にこだわりつつ、岩波書店は携帯スマホで利用するモバイル版で広辞苑の有料検索サービスをしていることだ。その検索で利用者が入力した言葉のうち広辞苑にないものを収集。新語の可能性、将来掲載する対象になるかどうかの参考にするという試みだ。

 広辞苑第7版の今後についてはまた機会を得て書いていきたい。

映画「舟を編む」に出演した宮崎あおいさん
岩波書店辞典編集部で机に向かう平木靖成副部長=1月9日、筆者撮影