「V長崎のJ1昇格」 県民の一体感得る偉業 西村明氏

 11月11日、地元長崎のプロサッカーチームであるV・ファーレン長崎がJ1昇格を決めた。ここに至るまで存分に実力を発揮した選手たちはもちろんながら、その活躍を支えた高木琢也監督、高田明社長をはじめとするチームスタッフ、それに毎回の試合に熱い声援を送り続けたサポーターの皆さんに、まずは祝福の言葉を贈りたい。

 私自身は、サッカーのまち国見の出身でありながら、これまでサッカーとは縁遠い生活だった。高校生の息子が友人に誘われて、諫早のトランスコスモススタジアムに通うようになり、J1昇格間近となった10月21日、ようやく名古屋グランパス戦の観戦機会を得た。

 当日は黒山の人だかりで、勝利こそ逃したものの、先制点を許した後の粘りが効いて、終盤で何とか同点に持ち込んだ。スタンドの声援はいや増し、心地よい盛り上がりに包まれた。

 その時ふと、これはまさに「集合的沸騰」だなと感じた。この言葉は、フランスの社会学者エミール・デュルケームが、1世紀前に書いた「宗教生活の基本形態」の中心概念で、熱狂的な宗教的儀礼の興奮状態によって生み出される非日常的な聖なる場で、その参加者全員が獲得する一体感のことである。

 サッカーの試合そのものは宗教ではないが、決まった日時に会場に集まり、みんなで同じ掛け声や所作を繰り返すさまは、どことなく宗教に似ている。大学の同期の伊達聖伸さんも、「遠くて近い、サッカーと宗教」というエッセーを上智大外国語学部のサイトに寄せている。宗教とは距離をおく多くの現代人にとって、スポーツや音楽を楽しむ場は、自己を越える大きな存在(集団や社会)とのつながりが得られる、数少ない機会ということなのかもしれない。

 過度の一体化は個人の自由を認めない全体主義の息苦しさにも通じるので、注意が必要である。ただ、今回のV・ファーレンのニュースは、それとは違った次元の話だろう。

 近世の大大名の藩域が県域と重なっていった隣県の熊本や鹿児島などとは異なり、長崎県は天領と多くの小藩からなり、島嶼(とうしょ)部も含めて放射状に広がった県域全体がまるごとリアス式海岸とも言える地形は、求心性に欠ける。

 そうしたなか、長崎県民にとって県全体が一体感を得る機会というのは、なかなか恵まれなかったと言えるだろう。したがって、V・ファーレンの今回の偉業は、県内外に住む長崎に縁を持つ人々に大きな励みとなったに違いない。J1を舞台に、ますますの活躍を楽しみに待ちたい。

 【略歴】にしむら・あきら 1973年雲仙市国見町出身。東京大大学院人文社会系研究科准教授。宗教学の視点から慰霊や地域の信仰を研究する。日本宗教学会理事。雲仙市から東京へ単身赴任中。

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