針尾無線塔との関連は? 佐世保・解体された赤れんが倉庫を探る

 昨年末、佐世保市針尾地区(長崎県)にあった赤れんが倉庫2棟が老朽化のため解体された。旧日本海軍が建てたとみられるが、どういった施設だったのか地元でもほとんど知られていない。高さ136メートルの無線塔3基が圧倒的な存在感を示す「針尾無線塔」で知られる針尾地区だが、何か関連はあったのか-。「埋もれた戦争遺構」を探った。

佐世保祐生園の敷地内にひっそりとたたずんでいた赤れんが倉庫=2016年9月6日撮影、佐世保市針尾西町

 赤れんが倉庫があったのは針尾西町の障害者支援施設「佐世保祐生園」の敷地内。国指定の重要文化財「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」(針尾中町)から車で10分ほどの距離にある。

 祐生園を運営する社会福祉法人「長崎博愛会」によると、市から土地を借り、移転新築した1971年当時からあった。以前は旧市立針尾中(68年に江上中と統合し東明中)の学校施設として使われていたようだ。ヒントを探るべく旧針尾中の前身、旧崎針尾村立崎針尾中の卒業生、永田實さん(84)=針尾東町=を訪ねた。

 「倉庫には大きなタービンとか機械類があってね。米軍がめちゃくちゃに壊していて、まずその片付けからやった」

 永田さんは新制中学として崎針尾中が開校した47年、2年生に編入。倉庫2棟以外にも木造の建物3棟と高さ15メートルほどの鉄塔があったと記憶する。倉庫の建設工事も覚えていて「第二送信所と同じぐらいの時期だった」と話す。

 第二送信所は、針尾無線塔の北方約1キロに建てられた鉄筋コンクリート造のかまぼこ形半地下壕(ごう)式の第二送信所と第二電源所だ。針尾無線塔が建てられた大正期、無線は長波通信が主流で、遠距離通信には高出力の電波と長大な無線アンテナを使うため、巨大な設備が必要だった。だが短波通信が主流となり、旧海軍は44年に第二送信所を建設。戦後の台風による浸水被害で使えなくなり撤去された。

 では赤れんが倉庫は関連があるのか-。針尾無線塔を調査する市教委の松尾秀昭学芸員に聞いた。松尾学芸員によると、防衛省に残る「引渡目録」に「佐世保航空隊松岳送信所 発電機室 燃料庫」と記載があるという。発電機室は216平方メートル、燃料庫は28平方メートルということも分かった。

 詳細な資料は残っていなかったが、れんがの組み方などから40年前後の建設と推察されるという。永田さんの話を総合すると、送信所だったことは間違いないようだ。ただ針尾無線塔を管理した通信隊とは違う部隊。松尾学芸員は「組織が縦割りのため部隊が違うと連絡系統も別でした。関連はないと思います」。

 赤れんが倉庫は博愛会が倉庫として使っていたが、老朽化のため、市は撤去する方針を決定。配置図など記録を保存し、昨年12月に解体された。

 永田さんは「当時を知る人も少なくなった。歴史を残すと同時に地域の文化を表に出していかんば、としみじみ思うよ」と語った。

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