61年前に不安な気持ちでキャンプイン 史上最弱と評された“幻の球団”

高橋ユニオンズの成績

わずか3年のプロ野球チーム、“史上最弱球団”高橋ユニオンズ

 2月1日から春季キャンプが本格的にスタートしたプロ野球。61年前の岡山県野球場で不安な気持ちを抱えながら、キャンプインを迎えたチームがある。高橋ユニオンズだ。

 高橋ユニオンズは1954年、パ・リーグに誕生した球団だ。当時、パは7球団でペナントレースでは常に1球団が休みになっていた。大映スターズの永田雅一オーナーは、この非効率を解消するために8球団制にすることを提案。旧知の高橋龍太郎に球団設立を持ちかけたのだ。

 高橋は大日本麦酒の元社長で“ビール王”とも言われ、貴族院議員、通産大臣を歴任。スポーツにも造詣が深く、戦前は職業野球イーグルスのオーナー、戦後は日本サッカー協会の会長も務めた。高橋は球団設立を了承したがスポンサー企業や親会社はなく、自らのポケットマネーで球団を運営する前代未聞の「個人球団」としてスタートを切った。

 各チームの寄せ集めでスタートしたチームは弱く、1年目は8球団中6位だったが2年目、3年目と最下位の8位。2年目にはトンボ鉛筆がスポンサーになったが、3年目は再びスポンサーなしと苦しい状況に追い込まれる。本拠地は川崎球場だったが、観客動員も少なかった。

 ただ3年目の1956年は、慶應大学から入団した佐々木信也が新人ながらフル出場し、最多安打、ベストナイン、オールスター戦にも選ばれた。オフには、巨人の広岡達朗、西鉄の稲尾和久などと対談するなど、雑誌や新聞にたびたび登場し、一躍スター選手の仲間入りを果たした。

合併問題が浮上、球団存続を呼びかけるも…

 4年目のキャンプイン直前の1月14日、パ・リーグのオーナー会議で、大映の永田雅一が突然、球団同士を合併させて、6球団にする構想を提案。下位に低迷する高橋ユニオンズは合併候補の筆頭と目された。高橋龍太郎オーナーは「皆さんの意向はわかるが、せめて今年だけは続けさせてほしい」と、球団存続を呼びかけた。高橋オーナーは佐々木信也の打率を毎日手帳につけて計算するなど、選手を我が子のように可愛がっていたのだ。

 選手には合併の話は知らされていなかったが、龍太郎の息子で球団代表の高橋敏夫はこのことを察していた。球団はラバーコートを新調、これを着た佐々木信也が報道陣が撮影した写真に納まるなど、明るい雰囲気でキャンプは行われた。しかし2月14日、報知新聞が「パ・リーグ、6球団に再編成」とスクープ。毎日、大映、高橋が合併して1球団になると報道された。特に歴史が浅く、選手層も薄い高橋の選手は合併してもほとんどの選手が解雇されるのではないか、と報道され、選手たちの不安は募る一方だった。

 そんな中、2月23日にオープン戦が始まる。高橋は23、24日と岡山県野球場で東映とダブルヘッダー4試合を行ったが、3-6、0-1、6-7、0-2で全敗する。ナインの気勢は上がらないまま、これが高橋ユニオンズの最後の試合となった。

 球界再編を言い出した大映の永田雅一は、他球団オーナーとの調整に失敗。まず毎日が合併交渉から離脱、今度は東映に話を持ち掛けるが、これも失敗。結局、大映と高橋の2チームだけが残り2月25日に正式発表。7球団の弊害を解消するために作られた第8球団、高橋だが、合併によってパ・リーグは再び7球団に戻ることになった。

1957年3月に解散式、高橋龍太郎オーナーが晩年に残した言葉

 高橋の選手は大映だけでなく、近鉄、東映も引き取ることとなる。高橋の笠原和夫監督は「チームは変わっても野球をするのは変わらないのだから、頑張って練習をしよう」と選手を励ました。唯一のスター選手だった佐々木信也は、3球団ともに獲得を希望したが、大映に移籍。代表の高橋敏夫は選手に希望球団を聞き、交渉を進めた。

 3月5日、選手の移籍先が決定し、翌6日に岡山県営球場で解散式が行われた。近鉄には4名、東映には6名、大映には笠原監督以下30名が移籍。選手たちは球場に駆けつけた移籍先球団関係者に挨拶をしたのち、宿舎の旅館「東洋」に戻り、最後の食事会をした。選手、監督ともに淡々としたものだった。

 大映は高橋と合併し、大映スターズとなるが、翌年毎日オリオンズとさらに合併し、大映毎日(大毎)オリオンズになる。現千葉ロッテマリーンズだ。佐々木信也は大映スターズ、大毎オリオンズでプレーをするが1959年に引退、プロ野球解説者、そして「プロ野球ニュース」キャスターになり一世を風靡した。

 高橋ユニオンズが解散した時、オーナーの高橋龍太郎は82歳だったが報道陣に対して「みんなムダだった」と語っている。以後、龍太郎も息子の敏夫も高橋ユニオンズについて語ることはほとんどなかったが、晩年、孫の一人が龍太郎に聞いたところ、一言「騙されたんだ」と語ったという。

 史上最弱球団と言われる高橋ユニオンズを愛したオーナーの高橋龍太郎は1967年、92歳で没している。実働わずか3年のプロ野球チームだった高橋ユニオンズだが、その歴史は今もなお語り継がれている。

(細野能功 / Yoshinori Hosono)

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