江戸期最悪の水害<寛保洪水>と一冊の名著 大災害の政治権力に与える衝撃

寛保洪水位磨崖標(出典:Wikimedia Commons、埼玉県秩父郡長瀞町の山腹中腹、ここまで洪水が押し寄せた)

江戸期最悪の水害<寛保洪水>と一冊の名著

江戸中期の1742年(寛保2年)夏、日本列島中央部、とりわけ関東甲信越地方は大型台風に直撃され未曽有の災禍に見舞われた。中でも旧暦7~8月にかけて襲った数度の大水害(大洪水と高潮)で江戸下町は水没したのである。徳川幕府「中興の祖」とされる第8代将軍吉宗の治世下に襲った江戸期最悪の洪水の経過と災禍を検証する。

1742年8月28日(寛保2年旧暦7月28日)頃より台風による暴風雨が畿内を襲い、関東でもこの日以後雨が降り始めた。翌々日の8月1日の夜に入ると、江戸では雨とともに北東の激しい風が吹き始めていた。深夜・四ッ時(午後10時)頃から激しい南風に変わり強烈な嵐が吹き荒れだした。

さらに強風が江戸湾からの高潮を隅田川・荒川に呼び込み、その結果、翌2日明け方七ッ時(午前4時)頃から水位が上昇し、満潮と重なった六ッ時(午前6時)には沿岸部は平常水位よりも8.9尺(2~3m)も上昇して江戸の下町を壁のような潮流が襲った。溺死者が次々に濁流に流された。

同じ頃、利根川、荒川、多摩川の上流域で発生した大洪水の激流が、堤防を各地で切り下流の江戸方面に流れ始めた。特に堤防が破壊された利根川の激流は関宿城や忍(おし)城を押し流した後に江戸下町方向に南下し、8月3日(1742年9月1日)夜には江戸下町を直撃した。水位の上昇は8月7日まで続き、この間に本所・浅草・下谷一帯だけで1000人以上の溺死者が出た、とされる。町奉行石河政朝の報告によれば、本所では街中での水位が5尺(1m50cm)、多い場所では7尺に達し、軒まで水没した家屋が続出した。 隅田川にかかる両国橋・新大橋・永代橋など多くの橋が押し流された。ところが減水しはじめた8月8日に再度の暴風雨が江戸を襲って却って水位が上昇し、浅草・下谷では遂に水位が1丈(3m)に達し(「徳川実紀」)、完全に水が引くまでに20日から1か月を要した。

「江戸水没」という事態を重視した幕府は、船をかき集めて川と街路の区別が付かなくなった下町へと派遣して、溺れている人や屋根や樹木の上で震える人を救出した。同時に被災者に粥や飯を支給した。史料によれば、食料の支給を受けた人数は8月6日で6000人分、被害のピークであった8日には1万人分、水が引いて支給を昼のみに限定した16日でも7000人分を要した。また、被害の少なかった江戸の有力町人の中には独自に炊出しを行ったりした者もいた。幕府は備前・長州・肥後などの被害の少なかった西国諸藩10藩に命じて利根川・荒川などの堤防や用水路の復旧(御手伝普請)に当たらせて事態の収拾を図った。注目したいのが信州(現長野県)である。信州は千曲川の大氾濫に加えて相次ぐ土石流により流域全域が壊滅状態となった。被災民は、この年が戌年(いぬどし)であったことから、未曾有の水害を「戌の満水」と名づけその大災禍を後世に伝えた。

長野県小布施町にある洪水水位標。(出典:Wikimedia Commons、堤防上である地面が水位約6.9m で、一番上が、寛保2年の氾濫水10.7mを示す)

西国大名の御手伝普請

10月6日、将軍につぐ実力者・老中松平左近将監乗邑(のりさと)、同松平伊豆守信祝(のぶとき)、同本多中務太輔忠良(ただよし)の採決により10の大名が御手伝普請に特命された。大名の手伝い普請というのは、幕府が必要な材木、坑木、鉄物などを負担し、特命を受けた大名が普請人足費、竹材木の伐採費、運賃、などを負担した。各藩は家老級の重臣を惣奉行にたて、家臣団を被害現場に出した(御手伝普請が形を変えた<政治的弾圧>であることは言うまでもない)。

•肥後・熊本藩 藩主 細川宗孝、 普請場所 江戸川 庄内古川 古利根川 中川 横川 綾瀬川
• 長門・萩藩 藩主 毛利宗広 、普請場所 上利根川右岸
• 伊勢・津藩 藩主 藤堂高豊、普請場所 権現堂川 思川 赤堀川(現在利根川中流部)鬼怒川 栗橋関所前
• 備前・岡山藩 藩主 池田継政、普請場所 上利根川左岸 烏川 神流川 渡良瀬川
• 備後・福山藩 藩主 阿部正福 、普請場所 下利根川
• 但馬・出石藩 藩主 仙石政辰 、普請場所 小貝川
• 越前・鯖江藩 藩主 間部詮方 、普請場所 新利根川
• 讃岐・丸亀藩 藩主 京極高矩 、普請場所 荒川 芝川 星川 元荒川
• 日向・飫肥(おび)藩 藩主 伊東祐之 、普請場所 荒川
• 豊後・臼杵藩 藩主 稲葉泰通 、普請場所 荒川

幕府は、有無を言わせないために直接藩主に通達した。江戸藩邸に在府中である岡山、津、鯖江、出石、飫肥、臼杵藩の藩主には直接登城することを命じた。他の藩の場合は奉書を送った。被災地での真冬の重労働が始まる。幕府は翌年の出水時期(4月)までに決壊堤防の復旧工事を終了させるよう厳命した。

熊本藩は他藩より大幅に遅れを取った。10月21日熊本で幕府老中奉書が届けられた。物頭兼普請奉行長谷川主水は、藩命により大坂(現大阪)で資金調達をしたので遅れて江戸についた。12月7日普請を開始した。現場作業や小屋に関しては江戸の町人や名主など有力農民に請負させた。工事遅れの厳しい書状が届いた。翌年4月30日熊本藩重臣は老中の私邸に出かけ普請が4月29日に完了したことを届け、翌5月1日、江戸城に届けたが、咎めもねぎらいの言葉もなかった。熊本藩出費は12万7280両であった。幕府からの褒賞はあったが、小藩よりも少なかった。熊本藩からの幕府にたいする贈り物は役人の役得とされるが、一部の者は受領を拒んでいる。

信州の被害は甚大であり自力で復旧に取り掛かれる状況からは程遠かった。そこで松代藩・上田藩・小諸藩など各藩の藩主や家老さらには旗本領地の名主らは関八州のように御手伝普請による復旧を繰り返し必死に幕府に要請した。だが、幕府は関東を優先するとして、信州各藩の訴えに耳を傾けず、わずかな復旧資金を提供するだけであった。松代藩などは独自に再建の道を探るしかなく、苦難の道を歩むのである。

「日暮硯」~改革の人・松代藩家老恩田木工~

「戌の満水」を検証するに当たって、「日暮硯」(ひぐらしずずり、岩波文庫)を再読してみた。140ページほどの文庫本だが、読み始めたら巻措(お)くあたわずで半日で読了してしまった。政治のあり方、上に立つ者の心得、個人の生き方に多くの示唆を与える含蓄の深い名著である。本書は、江戸中期の宝暦年間に信州松代藩(現長野市南部、真田家、外様、10万石)の家老・恩田木工(おんだもく、1717~1762、知行1000石)が、大洪水などにより破滅寸前に陥った藩財政の立て直しを藩主幸弘(当時10歳半ば)から一任され、改革に臨んで嘘をつかず、誠実・思いやりを信条とし、藩救済の功績をあげた事蹟をつづった説話集である。本書は分かりやすいのが何よりである。以下、「日暮硯」(岩波文庫)の「解説」を参考にし、一部引用する。

江戸中期になると、商品経済が発達し、全国の大名は参勤交替や江戸藩邸での多大な出費を余儀なくされ、加えて幕府から強要される御手伝普請(江戸城改修、河川改修工事などの大規模土木事業のヒト・モノ・カネ)の負担などから財政は火の車に陥った。不作や凶作も相次いだ。

松代藩では地理的要因による困難さがあった。山間のこの地は善光寺平などの肥沃な平野もあったが、千曲川・犀川の二大河川が領地内を流れており長年大水害に苦しめられて来た。中でも寛保2年の大洪水は江戸期最悪の出水となり、信州地方にも記録的被害を及ぼした。「戌(いぬ)の満水」と後に呼ばれるようになったこの大洪水は、死者が関東甲信越だけでも2万人を越えたとの説がある。松代藩は本丸まで濁水に没し藩主以下家臣たちは船で高台まで脱出し難を避けた。かつてない大打撃を受けたが、幕府からの復旧支援の手は打たれず、この大水害以降領地石高の3分の1は回復不可能なまでに荒廃した。飢饉も相次いで、藩財政は極度に窮乏した。藩士の俸禄は半減され、農民に対する年貢取り立ては苛烈を極めた。全領地に及ぶ百姓一揆が相次いで起きた。藩政は混乱し、なす術もない状態に陥った。

改革者の志を語る名著

若年の藩主幸弘は、藩財政を立て直のため年寄りの家老らを差し置いて、30歳後半の家老恩田木工を勘略奉行に抜擢した。恩田に「宝暦の改革」(1754年開始)のすべてを託した。3年間で改革の完遂を命じた。恩田は「改革が失敗に帰したら切腹する」と藩主の面前で確約した。(藩主幸弘は47年間藩政のかじ取りを行ったが、治政がよく行われ松代中興の祖の名君と称されている)。恩田は、藩主はもとより藩内有力者の信頼を得て一大改革を導いていく。

本書では、恩田の一大改革に臨む決意と実行が次々に紹介される。彼は一大改革を成就するために率先垂範がすべてとして「藩の家臣から農民に至るまで、嘘は絶対にゆるせない」と厳命する。同時に質素倹約を藩士から領民に至るまで命じ、自らも1飯1汁を堅持し妻子と離別を決意する。改革反対派は「恩田は狂気にかられた」と噂を広げる。妻子が恩田の指示に従うと確約したことから離別は中止される。

恩田は、藩情の把握のため、藩士はもとより名主や農民に至るまで徹底した聞き取りを行う。直接伝えにくい情報は書面で通知させる。ここでも「嘘(虚偽の報告)は厳禁」である。聴取の結果、重税による農民の困窮と道徳的堕落、腐敗役人の跋扈(ばっこ)、藩士の文武両道に対する怠慢などが見えて来る。彼は次々に手を打つ。

(1)年貢の軽減と金納(2)荒廃地の再開発(3)悪徳役人の追放(4)賭博や遊芸の禁止(5)正直の奨励と文武の鍛錬による風儀の改善(6)神仏への信仰心の重視…。行財政改革と道徳心高揚は3年後には一応の成功を見た。恩田は役人の怠慢な行為などには厳格に処した家老として描かれている。だがそれは専制政治につきものの理不尽さとは大いに異なる。「改革に際し自己をまず厳しく律しなければならない」とした恩田は、その禁欲的生活や激務から宝暦12年正月惜しまれて世を去った。享年46歳。

「日暮硯」を座右の書とした政財界の首脳や教育者・研究者は少なくない。本書は実践的な書物といえ、長年読み継がれてきた理由は文章が平易で物語としての構成も起伏に富んでいて巧みであることによろう。が、本書の主題が正直・信頼・合意・思いやり、そしてそれらを踏まえたうえでの成功という普遍的な性格をもった問題だという点が重要だろう。これらのテーマは時代の差異やイデオロギー・社会体制の相違を超えて通用し、どこにおいても求められる普遍的な価値に関わるものである。本書がざっと300年の歳月を越えて長い生命力を有している所以だろう。今日、政財界や有識者ら社会の指導的立場に立つ人々の倫理観の確立を望む声が各方面から聞こえてくる。自らを厳しく律してから他者に倫理を訴える指導者がどれだけいるかが問われるのだが、はたして恩田の精神を汲むことができる世の指導者はいるのであろうか?

参考文献:拙書「天、一切ヲ流ス 江戸期最大の寛保水害・西国大名による手伝い普請」、「徳川実紀」、「日暮硯」(岩波文庫)、「松代町史」、筑波大学附属図書館資料など。

(つづく)

 

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