「野球選手」馬場正平の記憶 宮崎キャンプ1年目に姿現した「巨人軍の巨人」

写真左の頭一つ大きい選手がのちのジャイアント馬場こと馬場正平【写真:広尾晃】

テスト受けず巨人に体格だけで合格、本格的に硬式野球を始めて半年でプロ入り

 1955年、読売ジャイアンツは宮崎県串間市で春季キャンプを張った。それまで巨人は海外遠征のほかは、兵庫県や静岡県、愛媛県でキャンプを実施していた。九州・宮崎でのキャンプはこの年が初めてだった。

 しかし、串間キャンプには、スター選手はほとんど参加していない。この年、川上哲治、広岡達朗など巨人の主力選手は、2月2日から中南米遠征に出かけていた。3月16日まで、現地のマイナーリーグと26試合をする本格的なものだった。串間キャンプには、千葉茂、藤本英雄などのベテランも参加したが、大部分は若手選手だった。

 中でひときわ目を引いたのが、高校を2年で中退して巨人に入団した新人選手だった。まだ1月23日に17歳になったばかりの少年の名は、馬場正平と言った。のちのジャイアント馬場である。すでに身長は六尺三寸五分(192センチ)あった。日本人男性の平均身長が今より約10センチ低い162センチだった当時では、ずば抜けた高身長だった。

 馬場正平は新潟県の三条実業高の投手だったが、甲子園の予選に敗退。プロ入りを目指し高橋ユニオンズのテストを受けるつもりだったが、新潟出身の巨人のスカウト源川英治に見いだされ、巨人に入団することになった。

 実は馬場は高校1年のときは、足に合うスパイクがなくて野球部入りを断念し、美術部で絵を描いていた。しかし、野球をやりたがっているのを知った三条実業野球部の渡辺剛部長が靴屋に特注してスパイクを作り、馬場に贈った。

 馬場は2年生から硬式野球部に入り、野球を始めた。中学時代は軟式野球をしていたが、硬式野球はこの時が初めて。この年の10月にスカウトされているから、硬球を握り始めてわずか半年でプロ入りしたのだ。

 前年、中日ドラゴンズに敗れた巨人は、雪辱を期して多くの選手を獲得した。馬場もその一人であり、テストを受けることなく体格だけで入団した。

 1月には多摩川の巨人寮に入寮。1月15日からの若手キャンプにも参加。2月に入って串間キャンプに参加した。

新人選手として異例のインタビューも「走ることは苦手です」

 前年11月の入団時の身体測定は公開で行われ、その模様がスポーツ新聞に大きく掲載されたので、馬場正平の名は知れ渡っていたが、大部分の巨人選手にとって、馬場と会うのはこの時が初めてだった。

 巨人ナインはその大きさに度肝を抜かれた。背が高いだけでなく横幅もあった。馬場は他の選手とともに練習をしたが、その巨大な体躯はどこへ行っても目を引いた。

「今日の練習でグラウンドを5周しただろう、3周目から後ろの方で、汽車がダッシュするような、グウッグウッとへんな声がしたろう。あれは馬場のこきゅうなんだってさ、一番後ろにいるのが、一番先頭の者の耳にまで聞こえるなんてのははじめてだぜ」

 先輩選手の山崎弘美は語っている。

 馬場は、新人選手としては異例なことに、野球雑誌のインタビューを受けている。

――プロ野球に入ってから一番驚いたことは?

馬場「とにかく毎日ランニングをさせられることですね。走ることは苦手です」

――尊敬している選手は?

馬場「巨人軍では千葉(茂)さんと松田(清投手)さん」

――ではあこがれの大選手は?

馬場「杉下(茂)さん、別所(毅彦)さん」

――巨人なるが故にいままで起こしたできごとで、一番困ったことは?

馬場「そうですね、高校時代、バスケットのゲーム中、相手選手の足をふんだら、その選手の足がつぶれて、一週間以上医者に通わなければならなくなったことです」

 しかし、本格的に野球を始めてわずか半年でプロ入りした馬場は、プロの練習にはついていけず、コーチが野球の基本を一から教えなければならなかった。早々に2軍落ちが決まり、巨人の主力が南米遠征(8勝18敗だった)から帰ってきたときには、馬場は多摩川の2軍寮に戻っていた。

 馬場正平が1軍の試合で投げるのは2年後の1957年8月。プロ野球をあきらめて力道山に入門し、プロレスラーへの道を歩むのは5年後の1960年4月のことである。

 身長は巨人に入団後も伸び続け、2メートルに達していた。

(藤浦一都 / Kazuto Fujiura)

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