【特集】あなたがコペル君だったら… 軍靴の音が高まる今こそ考えること

By 佐々木央

 カヌー薬物事件について、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」をテキストとして考えた拙稿(1月19日の本欄)に、兵庫県の公立中で長く教員を務められた土居原和子さんから感想をいただいた。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)
 

書店に並ぶ「漫画 君たちはどう生きるか」

 土居原さんは、今も現役の教師だったら「君たちはどう生きるか」を道徳の時間に教材として使いたいと言い、授業の方法まで考えておられた。

 ―雪の日の出来事を、途中まで子どもたちと一緒に読みます。そして「この後、コペル君はどうしたのだろうか?」と子どもたちに続きを作ってもらいます―

 クライマックスともいえる「雪の日の出来事」。親友が上級生に脅されて、主人公のコペル君が迷っている場面だ。こういう事態になったら、一緒に立ち向かうと約束していたのだ。飛びだすなら今だ。

 なるほどと思った。自分の頭で考えること。それは「君たちは―」が一貫して強調していることだ。わが身に置き換えるのは「自分の頭で考える」ための最も良い方法だろう。土居原さんは続けてこう書く。

 ―実は私は本を読みながら、コペル君は友だちを助けに飛びだすという展開を想像していました。(略)学校の道徳の教材だったら、コペル君は勇気を出して助けに飛びだすはずですから!―

 意気地なし

 実際には、作者はコペル君にその「正解」を選択させず、コペル君は出て行かない。彼の“誤答”を利用して、もっと深く、正解の重さと意味を考えていく。

 私も土居原学級の生徒になって考えてみた。暴力的な上級生の前に飛びだすことが、私にできるだろうか。遠い過去の自分を振り返ったとき、私はそういう勇敢な子どもではなかったと認めざるを得ない。意気地なしだった。

 中1のとき、同級生が上級生からカツアゲされる現場にいて、何もできなかった。上級生の手にナイフがあった。恐ろしかった。翌日、教師にことの次第を洗いざらい話した。子どもが一番嫌う「密告」だった。

 そういう子どもだったから、これから書くことは自己弁護ととられても仕方がない。だが、土居原先生の問いかけに「助けるために飛びだす」と答える多くの子どもたちもまた、実際にはそうしないのではないか。多くのいじめが見て見ぬふりをされ、あるいは何人かはそれに加担するという事態は続いているのだ。それを避ける方法はあるのか。

 友と一緒に殴られるという選択は、自らのヒロイズムを満足させるだけに終わり、リアリズムを欠いているような気がしてならない。あえていえば、みんなの殴られる量がコペル君の分だけ減って、各3分の1から各4分の1になるかもしれない。だが、もしかしたら上級生の怒りに油を注いで、もっとひどい殴られ方をしたかもしれない。

 上位の正義

 他に取り得る道はあるだろうか。そのとき、ほかならぬ「君たちは―」が前半で、自分や自分を取り巻く問題を、社会との関係や歴史的な視野を持って捉えるように説いていることに気付く。

 広い視野で捉え直したとき、本当に問題なのは暴力生徒がいるという事実だ。彼らが正義面をして秩序を破壊している。この場合、コペル君が自らの正義(約束)を守ることは、結果として暴力に敗北することになる。より上位の正義を発動させ、暴力生徒を追放したり、暴力をやめさせたりする道を探すべきではないのか。

 例えば、彼らの暴行を記憶し、記録し、生徒の自治組織や教師、さらには家族に伝え、正義の回復を求める。あるいは、逃げだして誰かに通報し、救済を求めてもよかった。より上位の権力に正義が期待できるなら、それに賭ける道はなかったのか。

 原作では結局、事実を知った被害者の親たちが学校に強く抗議して事態が動き、学校が加害者を懲戒して、秩序が回復する。水谷君の父は実業界の有力者であり、北見君の父は陸軍大佐だった。学校も無視できなかった。

 メディアにいる私の立場からすると、隠されていた情報が明るみにでることで、より上位の権力による正しい判断と行為を導いたことになる。それは「内部通報」や「密告」と呼ばれるものが、弱者によって正当に行使された場合の最良の結果といえるだろう。

 救済描かず

 だが、この後日談は漫画版では省かれ、大人による救済は描かれない。重要性が薄いと判断されたのかもしれないが、現代日本に置き換えると、重い意味を持つ。問題を告発したら、正義は行われるのか。

 政権と近いジャーナリストによるレイプ被害を訴えた女性、加計学園問題で証言した元文部科学事務次官…。彼らの声は残念ながら、正義を発動させるに至っていない。

 原作の上級生たちは愛国的な生徒だ。「愛校心のない学生は、社会に出ては、愛国心のない国民になるにちがいない。愛国心のない人間は非国民である。だから、愛校心のない学生は、いわば非国民の卵である。われわれは、こういう非国民の卵に制裁を加えなければならぬ」と主張する。

 原作の出版は1937年、日中戦争が始まった年だ。「非国民」という言葉は、有無を言わせぬ強度を持ち始めていただろう。その時代に作者は、愛国を語る上級生に正義の裁きで報いた。

 反動の足音

 文庫版には作者と親交の深かった丸山真男が「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」という文章を寄せている。丸山は1980年、早稲田大で「大山郁夫・生誕百年記念に寄せて」と題して講演した。大隈講堂に集まった聴衆はぎっしり約1400人。その1人として私は、彼の謦咳(けいがい)に初めて接し、それが最後となった。

 講演の締めくくりで丸山は「戦後の民主主義に対する反動の足音がようやくあちこちに聴こえてくる時」と当時を表現した。戦争への備えがさらに進む今なら、「反動の足音」でなく「軍靴の音」と表現したかもしれない。

 この厳しい時代に、単なるヒロイズムや自己満足でなく、どのような勇気を持って、どのようにしたたかに、あなた自身やあなたの大切にしているもののために闘うのか。

 杉原千畝や映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の主人公、そのほか無数の名もなき抵抗者たちのことを思い浮かべつつ。

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