あの時の私は幼すぎてすべて甘かった。息子にこんな思いをさせずに済んだかもしれない。
私が妊娠したのは22歳の時。
妊娠した時はどうしようと悩んだけど、相手も喜んでくれたし、親も喜んでくれた。
でも、そのとき親が改まった表情で「話がある」と言われた。
その話とは兄と甥っ子のこと。
兄は2歳になったとき亡くなった。姉の子どもの甥っ子も1歳過ぎて2歳手前で亡くなった。
そのとき、「もしかしたら病気が遺伝しているかもしれない、ご姉妹みなさん採血で病気の検査をしてみてください。」
採血をしたけど色々あって結果は聞きに行かなかった。
兄と甥っ子の病気。「メンケス病」
もしかしたら私たちも保因者かもしれない。そう思いながら妊娠検査に病院に行き、主治医に話すと、
「急いで結果を聞きに行ってください。それによっておなかの赤ちゃんの今後が決まります」
この時の私はまだこの病気のことを詳しく知らなくて、ただ「結果危機に行くの面倒くさいな」としか感じてなかった。
結果は「メンケス病保因者」だった。「そもそもメンケス病って?」って疑問がわいた。
そのまま気になったし調べてみた。私はこんな重大な病気の保因者だったなんて知らなかった。
「メンケス病。別名縮れ毛病。20万人に一人とされる病気で男児にしかみられない。
女性の場合は保因者だったとしても発症はせず、保因者の子がいずれ妊娠し、男児を生むと発症する確率はある、親から子へ病気が遺伝する確率は1/2。
子どもが男児だったとしても保因者になる確率は1/2。保因者で発症する確率は70%。
体内で銅が作れない病気。首もすわらず笑顔が見られず成長が著しく遅い。現段階では病気は治ることがなく銅を定期的に皮下注射で体内に一生入れ続けることによって症状を軽くできる可能性がある。
色素が薄く、肌が白い。髪の毛も茶色く縮れている。なので縮れ毛病。
この病気は珍しすぎて知らない医師もいる。」
そして何より、この病気について私が調べていた中では成人を超えているメンケス病患者はいなかった。
それはもし子供が男児だったとして、メンケス病を患っていたとしたら私たちよりも命が短く、なくなる場面を見てしまうということだった。
軽くまとめるとこんな感じだがその時の私は事の重大さにやっと気づいた。
母は「遺伝移しちゃってごめんね。あなたたちに苦しい思いをさせてごめんなさい」って謝ってた。
医師は「決してお母様のせいではありません。ご自分を責めないでください。」って言ってくれた。
次の妊婦健診の日、母も一緒に行った。保因者だって伝えた。
「そっか。じゃあ、今後は3つの選択肢がある、
一、もしもの時を考え、中絶が認められる今、すぐ羊水検査をする
二、何も検査はせず、生まれたら考える
三、もしおろす気がないなら母子共に負担が少ない35週以降に臍帯血検査(へその緒から採血)をして、結果によって治療の準備をする」
私は即答で答えた。
「おろす気は全くないので、臍帯血検査をさせてください」
そう私が言うと母は後ろで涙を流していた。
それからは普通の妊婦さんと一緒。普通に生活して胎動を感じて嬉しくて。
まさか、ほんとに自分の子どもがメンケスになるなんて考えてなかったから。
そして35週になってすぐ、入院した。6人部屋にたった一人私。
不安でいっぱいだったけど、姉が気がまぎれるようにくだらない本とか名づけ本とかくれた。本当にうれしかった。
そして結果の日。旦那も仕事を休んで付き添った。検査してから毎日不安でうなされてもしものこと考えて涙を流してたのにこの日はもう覚悟が決まっていた。「どんな結果でも受け入れる」
私の名前が呼ばれ部屋に入る。いつもニコニコの先生なのに明らかに表情が硬く、「こちらで少々お待ちください」って居なくなった。
その日は主治医のサポートしてる先生だったのに、わざわざ主治医を呼びに行った。
私たちは目を合わせ悟った。そして主治医が席に着くなり。
「うーん、お子さんねメンケス病の保因者でした。でも、結果が分かった日から早速小児科と話を進めて治療に向けて話し合っています、今は出産をがんばりましょう。こちらは徹底的にサポートします」
私たちはよろしくお願いしますと頭を下げ部屋を出た。
旦那は過呼吸もちの私が結果を聞いて取り乱して過呼吸になるんじゃないかって思ってたらしく、私のあまりの冷静さに驚いたらしい。
逆に何か吹っ切れちゃってそれからは赤ちゃんが愛しくて早く会いたくてたまらなかった。病気のことなんてまだ考えないで無事に産めるように頑張ろうって思いながら過ごした。
そして元気な男の子が生まれた。3210gのほかの赤ちゃんより2回りくらい大きく、元気に泣く男の子。嬉しかった。産めた。やっと会えた。これから一緒に頑張ろう。この時はそう思っていた。
かけがえのない息子、愛しい息子。でも、この瞬間からたった9か月間の3人家族の始まり。
初めて子どもに会いに行ったとき、子どもにはいくつもの管が出てる機械と体をつなげられていた。
「そっか・・・うちのこ病気だった」このとき改めて思った。
生後四日目から銅を皮下注射する治療が開始された。淡々とこなされる作業の中で泣きわめく息子。
それがあまりにも流れ作業で悲しかった。病院からしたら注射なんて当たり前にこなってることだからそんなに重く感じないんだろうけど、泣いてる息子を見るのは悲しかった。
でも、ミルクもよく飲むし、よく寝る。抱っこの感触が暖かくて愛おしい。
私にも守るものができた。守らなきゃ。
入院は1か月だった。私が皮下注射を覚えてからの退院。
頑張った。早く一緒に暮らしたくて。そして退院できた。
それからは2週間に1回のペースで通院していた。
確かに首のすわりが遅い。
ミルクなんだけど日に日に飲める量が減っていった。だから体重もすごく軽かった。
先生は「一度入院して検査してみましょう」って言ってた。
また離れるんだ。また寂しい思いをさせてしまう。でも、1週間くらいで退院できるって言われたし少しの辛抱。
でも明らかにのみが悪く体重が増えず2週間がたった。
そして主治医に呼ばれ
「お子さんはメンケス病に見られる筋力低下の影響で口の筋肉が弱くなってきていてうまくミルクを飲むことができない。筋力が戻ってくるまで鼻にチューブを入れて胃に直接ミルクを入れたほうが体重も増えるのではないか」と言われた。
悲しかった、どんどんどんどん子どもが不自由になってきている。
次の日、子供に会いに行くと鼻にチューブがつながれてた。
気になるみたいで取ろうとして私に止められて。かわいそうだった。
「健康に産んであげればこんなことしなくて済んだのにごめんね。ほんとにごめんね。」
こんな言葉しかでてこなくなってた。
でも、私の気持ちとは裏腹に順調に体重は増えていった。やっぱり口の筋力低下が原因だったようだった。
医師に言われた。
「このまま口から食べる練習をしながら、しばらくは鼻チューブでお家でも過ごせませんか?」
正直戸惑った。外に出かける時もこの鼻チューブはつけていないといけない。本当に悩んだ。
でも、この子のため。この子が生きていくために今、必要なもの。
元気になるまで。体重が標準になるまで。
すぐそんな日が来るだろうと思ったから「わかりました」って答えた。
家に帰って一定の時間になったらミルクをチューブから定期的に点滴のように流す。
いろんな注意事項があったけど、これも子どものため、一生懸命覚えた。
一日に一回、銅を皮下注射。 鼻チューブでのミルク。
でも、一緒にいられる時間は本当に愛おしかった。
早期からの治療の甲斐あってか、首はすわらないけどとても笑顔が見られた。
愛しく可愛いわが子の笑顔。本当に愛おしい。
私が子供のもとから離れると、持ち上がらない首を一生懸命持ち上げようとしながら必死で目で追ってくる。見えないところに行くと泣きわめく。
嫌なことがあってギャーギャー泣いてる時も、自分の気持ちを表せるんだって嬉しくて全然イライラしなかった。一日一日が愛しく奇跡の連続のように感じた。
息子が7か月になったころ。
季節は寒い冬になっていた。そのせいか子供の体調がすぐれず、鼻水が出ていた。
そのときは口の筋力も付き始めていたので、まずはじめにミルクを口からあげて、残った分を鼻チューブであげていた。表情も豊かで自我も出始めていた。
ただの風邪だと思ってたし、実際病院にかかっても風邪だって言われたから、とりあえず薬をもらって飲ませてた。
でもその状態が2か月、どんどん悪化していって、鼻からの呼吸が苦しくて、寝てても10秒に一回くらい息苦しくて起きてる状態が続いてみていてもかわいそうだった。
でも、医者からは風邪だって言われてとくに治療もなかった、実際体重もとても順調に伸びてたし、
その時は風邪っぽい症状がある以外はとても元気だった。
そんな時に息子へ作った言葉がある。
「〇〇へ。
あなたへずっと前から聞きたかったことがあります。
あなたは私の子供に生まれて後悔はしていませんか。
よく、子供は親を選んで生まれてくると聞きますが、
あなたは私の何を選んで生まれてきてくれたのでしょうか。
辛い思いしかさせてないのに・・・
もし、あなたが私の子に生まれ後悔をしているのだとしたら、
私は謝ることしかできません。
でも、そう思わせてしまった分、
200%の愛情をパパと注ぎます。
私はあなたを産んでから一度も後悔をしたことはありません。
あなたの仕草に癒され、励まされながら毎日を送っています。
あなたは私にたくさんのことを教えてくれているのに、
私があなたにしてあげられるものはなんなのでしょうか。
あなたの心が満たされることはなんですか?
あなたが大きくなり、パパに肩車されて一緒に笑いあえる、楽しい日々が来ることを心から願います。
本当に本当に私たちの子どもに生まれてきてくれてありがとう。
あなたを一生掛けて守ります。
〇〇のことが大好きなママより。」
でも、「一生かけて」が守れなくなっちゃった、
こんなに突然別れが来るなんて思わなかった、
信じる者は救われるなんて嘘だよ。
その日は突然やってきた。
なんでもない日。いつもみたいに夜中も鼻チューブでミルクあげてた。
でも、相変わらず苦しそうに息して寝てて、10秒に一回起きてるのはこの1か月くらい変わってなかった。
最近そんな日が多かったから私も寝てなかった。その時に限ってすごい睡魔が来て、
「また鼻チューブが終わる30分後にアラームつけてねよっかな。」
って普通に思って寝てしまった。これがすべての間違いだった。
いつもならすぐに起きるのにその時だけはアラームにも気づかないくらい深く寝てしまった。
ふと気が付くと息子は眠っていた。
「やっと苦しくなく眠れてるんだ。よかった。」
ミルクが終わりいつも通りベッドへ運ぼうと持ち上げると
「ん?怒らないの?」
いつもなら寝てるときに持ち上げると「せっかく寝てるのに!」みたいに一瞬怒るのに今日は怒らない。
「え?〇〇?」
つんつんしても叩いてもくすぐっても反応がない。
「お母さん!〇〇が息してない!」
手が震える。
「〇〇!やだよ!まだ早いよ!やだやだ!起きてよ!」
ゆすっても起きない。ここからは断片的にしか覚えてない。
たまたまこの日は実家に泊まってて、親がいた。
誰が救急車を呼んだかも覚えてない。取り乱してた。父が息子に心臓マッサージしてたのは覚えてる。
救急車の音が聞こえると父が
「おい、今救急車きたぞ。もう少しだ、頑張れ」
って言ってた。私はその時何をしてたんだろう。
次に覚えてるのは病院でパパが来たとき。
2時間くらい経って、パパと病室に呼ばれた。
私は「やだ、行きたくない。」ってだだこねたけど、パパに連れられて行った。
そこには医師と看護師が勢ぞろいしてその前に心臓マッサージを受けている息子の姿だった。
小さい体で大人のめいっぱいの力で心臓マッサージを受けている息子がかわいそうで、心臓マッサージをやめてもらった。
息子はパパとママに見守られながら空へと旅立った。
死因は直接メンケスとは関係なかったけど、メンケスの影響で心臓に穴が開いていたり、肺が腫れていたりなどいくつものものが一気にきた影響だろうっていわれた。
最後の本当のお別れのときまで息子は本当に眠ってるみたいだった。
ぷにぷにほっぺも唇の色も生きてる時のまま。それが私にとってせめてもの救いだった。
「多分息子さんは眠るように亡くなったんだと思います。」
その言葉が納得できるくらい。少し笑っているように見えた。
辛いけどここ数か月の中で一番気持ちよさそうに眠っていた。
携帯の中には笑う愛しい息子がいるのに、目の前にはどこ探してもいない。
普段はわかっていることなのに、私の中の私が「あれ?〇〇はどこ?」って探してる。
「あぁ。もう会えないんだ。会いたい。会いたい。またかわいい笑い声が聞きたい」
とぽっかりと心に穴が開く。しばらくすると「そんなこと言ったって、いずれはお別れするってわかってて産んだんだ、やっと息子は苦しい思いをせずに過ごせるんだ」ってもう一人の私がぽっかり空いた穴をゆっくりと埋めていく。そんな日が続いて苦しかった。
パパの親に、「本当に眠っているように見えた。一緒にいる時間が長くなると、看ている時間も長くなる。パパとママに負担をかけないように自分の人生を自分から終えたんだよ。親孝行な子どもだね」って言われた。その言葉を今なら心から聞ける気がする。
何よりお別れのとき、パパが息子のほほをさわりながら流した涙が忘れられない。私はパパの大事なものまで失わせてしまったって思った。
月日がたち、2年後。これから妊娠するときは性別診断をすることを決めた。申し訳ないけどもうメンケスの子を育てる自信がなくなってしまったから。これにはパパもオーケーしてくれた。それを主治医に相談したら大きい病院を紹介された。
そして話に行くと本当に科学的な話が多くて難しかった印象しかない。
そんなとき、妊娠した。
「どうする?羊水検査する?」
選択肢は羊水検査。特例で私のように産める子が限られている場合のみ、羊水検査で性別を見てくれる。
私は羊水検査をすることに決めた。羊水検査をするのは都内の病院。
「また男の子だったら・・・」
今回の妊娠は不安しかなった。「また男の子だったらお別れをしなくてはいけない」
ネットでいろいろ見てた。死産した人の話。「産声が聞こえない出産ほど悲しいものはない」
その通りだと思った。不安で仕方なかった。
そして羊水検査を2日後に控えた妊婦健診。何もなくいつも通りエコーをして帰ろうとしたとき、
主治医の先生、周りの看護師が一列に並び私に言った。
「〇〇君は本当に残念だった。でも、それでも産んだあなたは立派です。
今回の妊娠がいい結果であることを心から願っています」
そう言ってくれた。涙が出た。
いい結果を望んでいるのは私だけではないんだ。先生も思ってくれてる。
心強かった。
そして羊水検査、想像以上の痛みで涙が出た。でも、これでもいい結果が出るって信じて頑張った。
それから結果までの2週間は毎日寝ているときはうなされた。辛かった。
結果の日が近づくにつれて心臓がおかしくなりそうだった。
そして結果の日。都内の病院に行く。
呼ばれるまでも気が気じゃなくて心が苦しかった。
名前が呼ばれた。
コンコン・・・。部屋に入る。
入った途端。「おめでとう!女の子!」
私が椅子に座る前に言われた。本当に涙が止まらなかった。毎日空に向かって息子にお願いしていたのが叶った。息子が叶えてくれた。
女の子でよかったという安心感より、もうおろすことを考えなくていいんだっていう安堵感のほうが強かった。
でも、この子もメンケス病の保因者かもしれない。それはこの子が大きくなって自分の意志でメンケスの保因者の検査をしたいとなったら検査をする。それまでは検査はできないって言われた。
そして生まれた。元気な女の子。息子に妹を作ってあげられたのが嬉しかった。
そして翌年次女が生まれた。息子は3人兄妹になった。
娘たちは風邪もめったにひかない、とても健康で元気に成長している。
気づいたら息子の亡くなったときの体重を優に超えてた。
笑顔だって。首だって。歯だって。ハイハイだって。
全部息子ができなかったこと、簡単にできる。息子にもさせてあげたかった。
でも、姉に「〇〇がいてくれたから娘たちが首すわったり、ハイハイとかできるようになるのが泣けてくるほどうれしいしありがたいでしょ?」って言われた。
本当にその通り。息子がいなかったら首がすわるのも、ハイハイするのも笑うのも当たり前に感じて何にも思わないだろう。
でも、そんな元気な娘たちだけど。寝ているときは本当に不安になる。
「ちゃんと息してるかな?」
手を当ててみたり、お腹の動きを確認してみたり、寝息を聞いたみたり。
私が早く気付いてあげられたら息子は死なずに済んだという思いがあるから、娘たちが寝ているときはとても過保護になってしまう。
だから電気を真っ暗にするのは怖い。子どもが見えなくなるから。
息をしているのかわからなくなるから。
一度娘が亡くなる夢を見た。夢の中の私は涙も流さず「あーぁ。また私の目の前から消えちゃった」って言ってた。
ぼんやり眼を開けると目の前にスヤスヤ気持ちよさそうに眠る娘がいた。
そこで、「今のは夢だったんだ」ってわかった瞬間一気に涙があふれて声出して泣いた。
もう子どもを失いたくない。本当に改めて感じた。
たまに涙が出て息子に会いたくなる。
前にもこういうことがあったとき、母が、
「〇〇はママが元気かな?って思ってママに会いに来てくれたんだね。で、ママが元気なのが分かったから安心してまた遊びに行ったんだよ。だからあんたは泣かなくて大丈夫!」
って言われた、この言葉本当に私の心を救ってくれてる、
同じ状況下で兄の場合は亡くなるまで病院生活。実家に帰ったのなんて外泊しかなかった。
そんな息子を亡くした母は私たちには考えられないくらい苦労して苦しんだと思う。
だからこそ。そんな母の言葉だからこそ本当に心に響き、今でも私を励ましてくれてる言葉。
元気で毎日あわただしく過ぎていく中で、優しく笑う息子の写真が部屋を見渡せる場所にある。
最近長女が「にーに」って写真に話しかけるようになった。
ちょっとふざけ半分で長女に「にーにとお話したことある?」って聞いたら
「にーにとね、シャボン玉した」って言ってた。うそかほんとかわかんないけど、
なんか嬉しかった。
子どもたち三人が夢に出てきたことがあった。長女と次女が遊んでる姿を息子がにこにこしながら見てた。それを私とパパはにこにこしながら見てる。幸せな時間だった。
一生叶わない夢だけど、夢の中なら息子と話せる。5人家族でいられる。
私が息子を妊娠したのは22歳。出産、子育てに対する考えがあまりにも未熟すぎて、息子をたくさん苦しめたかもしれない。
そしていつか、娘たちにメンケスのことを話さなければいけない日が来る。それは母である私の使命。
苦しむと思う、辛いと思う。でも、産めないわけではない。希望はいくらでもある。
私はあなたたちを産んで希望は沢山残っているって実感できた。と。
それを子どもたちがどうとらえるかはわからないけど、ちゃんと話す。息子のことも。
今私が22歳の当時の私と話ができるとしたら、結婚や子どもを産むということを甘く考えすぎだと叱りたい。
でも、いろいろメンケスのことを知りすぎてからの男児の妊娠が分かってたら、息子との出会いもなかったかもしれないと思うと、あの時妊娠してよかった。
また空で息子に会ったら沢山の話をしよう。一緒に遊べなかった分、沢山遊ぼう。
息子へ。
あなたの可愛い笑顔、とても愛しいです。
辛いとき、あなたの写真に写る笑顔、可愛い泣き声を聴いて励まされています。
あなたを見るたび、妹たちに起きていることすべて奇跡の連続なんだと感じます。
妹たちのふとした仕草、表情が時折あなたに見えて嬉しく思います。
あなたの妹たちを一生かけて守り、毎日に感謝し生きていきます。
だから、もうちょっと時間がかかるかもしれないけど、ママがお空に行くまで待っててね。
会えたら今まで我慢させてしまった分、沢山ハグしよう。沢山遊ぼう、ケンカもしよう。
また会おうね。あなたのことが宇宙一大好きなママより。
著者:石郷 碧 (from STORYS.JP)