【末期がんの父に贈った病院ウエディング】めげない心が起こした奇跡/土田 ひとみ

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「国語も算数も全部できなくていい。

ただ、

これだけは誰にも負けないという

たった一つの道を見つけなさい」

小学生になったばかりの私に、父が言った。

普段、こんな真面目なことを言わない人だったから、

この言葉は、私の胸にグッと刻まれた。

それからいつもこの言葉は胸にあった。

だけど、

「たった一つの道」は見つからないままだった。

だって、簡単に見つかるものじゃなかったから。

もう、探すのも辞めようかと思った。


だけど、

30歳になったとき、

ようやくその『たった一つの道』を見つけた。

父の死と引き換えに。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

アラサー・独身・夢なし 私は何をやりたいのだろう

一年の半分近くは雪に囲まれる生活。

そんな雪深い街に私は生まれ育った。

山形で生まれ、

山形で育ち、

山形の看護学校へ進学し、

山形の病院へ看護師として就職し8年目になった。

どこにでもいる田舎者。

家族も、ごくごく普通だ。

いや、

父がちょっぴりひねくれているとか、

短気とか、

その程度の変わったところはある。

父は自動車整備士。

この道一筋だ。

私が小学生の頃まではディーラーに勤めていたが、いきなり独立を決め、

家族の反対を見向きもせずやってのけた。

それから町の小さなくるま屋さんとして細々とやってきた。

父はいつも油まみれで、青いつなぎが黒ずんでいた。

父の構えた店も、お世辞にも綺麗とは言えない。

ところどころボロボロで、

「ペンキ塗り替えた方がいいんじゃないの?」と、

おもわず言いたくなるような外観だ。

しかし、

父にとっては自分で築いた城のように大事なものらしい。

どこかに出かけた後は必ず、自分の城の見回りに行く。

家族旅行の最後の〆は、必ずと言っていいほど城の見回りだ。

誰からも羨ましがられないような城の主だけれど、

「俺が決めた道だ」と、

照れながら言っていた。

父は、この城の主ということだけは、

誰にも負けないでいるようだった。

そんな父の娘である私は、

顔も性格もよく似ている。

ひねくれたところが特に。

素直に「ありがとう」とか「ごめんなさい」がなかなか言えない。

一番近い存在である、家族に対しては特にそうだ。

大事な人になればなるほど、恥ずかしくて言えない。

父も全く同じで、

母が作った卵焼きを食べたときも

「まずまずだな!」と

照れながら言う。

大好物のくせに。

長年連れ添っている母に言わせてみれば

「お父さんの言う『まずまずだな』は、百点満点と言っているようなもの」

らしいのだが、

他人にはなかなか伝わらないだろう。

私も、そんな照れ隠しのようなひねくれたところがそっくりなものだから、

おかげさまで恋愛下手になってしまった。

アラサーと呼ばれる歳になっても、

なかなか結婚相手が見つからずにいた。

結婚もできないし、キャリアップも迫られる時期だし、

どうしたものかと頭を悩ませていた。

看護師の先に、私のやりたいことがあるのだろうか。

かと言って、他にやりたいことがあるわけでもない。

ところで私はどうして看護師になったのだろう……。

ああ、そうだ。

高校二年生、進路に迷っていたときの母の会話を思い出す。

お母さん、進路どうしよう。
何になりたいかなんて分からないよ。

うーん、そうだ!
看護師なんてどう?
一生ものの資格だしね。
あなた優しい方だし、向いてると思うよ。

看護師かぁ……。

それから看護師になることを意識した私だが、

決め手はこれだった。

お父さん高血圧だし、
看護師のいうことなら素直に聞いて、塩分控えめな食事をしてくれるかも。

なんだかんだ言って私は、昔からファザコンだった。

小さい頃、父が家に帰ると一目散に玄関まで走って行き、

「おかえりー!」と抱きついていた。

父も私のことをとても可愛がってくれ、

「一生嫁には出さない!」と言っていた。

しかし25歳を過ぎたあたりから

本当に嫁に行かないのかと心配し始め、

早く嫁に行け、と言うようになった。

まあ、それに対して私も

「結婚したから偉いってわけじゃない!」と口答えしていたけれど。

いつの間にか父と私は、憎まれ口を言い合いっこするような仲になっていた。

ああ、自分の将来のことについて思いを巡らせていたのに、

父のことばかり考えてしまった。

私は、父の高血圧のために看護師になったようなものだけれど、

まあ心配はないだろう。

だって、

憎まれ口をたたく人は大概長生きするから。

それよりも、これから私はどうしたらいいんだろう。

忙しい毎日に追われ、気が付いたら看護師8年目。

いつの間にかベテランと呼ばれていた。

役割も少しずつ増え、その分やりがいは増してきた。

だけど、アラサー独身、彼氏なし。

キャリアアップも迫られている。

周りがどんどん結婚や出産をしていくのを横目で見て

キャリアだけじゃなく、

女性としての幸せも手に入れたいと、思ってしまう。

仕事も家庭も、一人の女性として輝くことも全部譲れない。

私は欲張りなのかなあ……。

そんなとき、

ふと小学生の頃言われた父の言葉を思い出した。


「国語も算数も全部できなくていい。

ただ、これだけは誰にも負けないという

たった一つの道を見つけなさい」


今の私は、

『誰にも負けないたった一つの道』を見つけるどころか

これからどうしていいかも分からず、

自分の人生の中で完全に迷子になってしまっていた。

私は何がしたいんだろう。

どうしたら幸せになれるんだろう。

私の『誰にも負けない何か』って何だろう。

看護師8年目となった私は、毎日自分に問いかけていた。

しかし、その問いの答えは意外にもある日突然訪れた。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

山形娘、東京さ行ぐ

冬には世界をすべて白色のベールで包んでいた雪が、

春の訪れとともに道路の片隅に追われ薄汚れた姿をしていた。

その頃私は、

毎日片道一時間以上もある通勤の車中で、ぐるぐる悩んでいた。

あーでもない、こーでもない。

私はいったいどんな道を歩みたいのだろうか。

もうこの悩みは一生続いて、答えが見つからないまま死んでしまうんじゃないかってくらいに。

しかし、ある日突然ひらめいたのだ。

ビカビカーっと雷に打たれたように、ひらめいたのだった。 

私、東京に行く!!

気が付いたら私は、車の中でうおぉーーー!!と叫んでいた。

『東京』に何があるのかは分からない。

でも、なぜか、猛烈に行きたくなったのだ。

格好つけて言えば、

何か見えない力に引っ張られているかのようだった。

東京に『誰にも負けないたった一つの道』の糸口はある!!
絶対!

根拠のない自信だったけれど、

悩み続けていた毎日からの解放は、格別な爽快感だった。

薄汚れた雪の中から芽吹いたフキノトウのような気分!

パーっと春風が自分の心に吹いてきた。

私の長い冬は終わったのだ。

今までどうして山形にしがみついていたのだろう。

山形以外に出ていくなんて考えもつかなかった。

怖いとか、失敗したらどうしようとか、

そんなことを言っている場合ではない。

時間がない!

なぜなら私はアラサーだ!

30代の大台に乗る前に、何としてでも何かをつかみたい!

仕事も恋愛も中途半端なまま30歳になるなんてごめんだ!

そうと決まったら一直線!

早速、転職サイトに申し込んだりと上京へ向けて準備を進めた。

30手前で上京するなんて……、と

鼻で笑う人もいた。常識外れだと。

誰かに背中を押してほしくて、占いにも行ってみた。

しかし、占い師すらも私の上京を反対した。

それでも私は、上京することを辞めなかった。

占いがなんだ! 私の道は私で決めるのだ!!

この頃の私は、

独立を決めたときの父の姿にそっくりだったと思う。

自分の決めた道だから、一歩も譲らない。

父も分かってくれるだろう。

なんてったって父が

『誰にも負けないたった一つの道を見つけなさい』と言ったんだから!

よーし!!!

勢いをつけ、私は両親に上京の意思を伝えた。

私、東京に行く!

しかし……、いや、予想通りだろうか。

両親は反対した。

猛反対。

私の上京行きの決意を鼻で笑った他人や、占い師と同じことを言ってきた。

今さら東京だなんて自分の歳を考えたの?

せっかく公立病院に就職したのに辞めるなんてもったいない!

 

東京なんて危ないんじゃないの!?

もう、結婚する気はないのか!?

……。

痛い言葉を次々と浴びた。

私を心配するふりをして、娘が遠くに行ってしまったら寂しいという両親の気持ちも感じだ。

分かってる……。
分かっているんだけど、どうしても私は東京に行きたいの!
何があるかなんて分からない。
でも、行ってみなくちゃ分からないの!

お父さんが昔言った、
『誰にも負けないたった一つの道』というものを見つけたいの!

……。

……勝手にしろ。

両親は納得しなかった。

それでも私は強引に突き進んだ。

両親が寂しがっていることも、

困った娘だと思っていることも、

心配でしょうがないという気持ちも、

全部背中に感じていたけれど、

私は絶対に後ろを振り返らなかった。

そしてこの日から、両親との気まずい同居生活が始まった。

「おはよう」と「おやすみ」くらいは言ったけれど、極端に親子の会話は減った。

元々私は家族と話すことが大好きで

特に母とは、よく取り留めもなく話していた。

父ともバラエティ番組を見ながら、一緒にゲラゲラ笑うのが好きだった。

休みの日にはよく家族でドライブに出かけていた。

それがすべてなくなった。

私が上京を決意したせいで、家庭内の雰囲気ががらりと変わってしまった。

それでも私の決意は揺るがなかった。

だって
『誰にも負けないたった一つの道を見つけなさい』
と言ったのはお父さんだもん!

この言葉だけが、私の味方だった。

それから半年の月日が流れ、再び山形の長い冬が訪れた。

毎日雪が降り続け、出勤前の雪かきが日課になっていた。

相変わらず、私の上京の意思は固く、順調に就職活動も行っていた。

そんな中、第一志望の二次面接が決まった。

これが決まれば、私の東京行きは確定だ。

面接の前日、もちろん山形は雪。

東京用のパンプスで雪道は歩けない。

あの決戦の日から、なるべく両親には話しかけないように暮らしていた私だったが、

その日は、父に駅まで車で送ってもらう他なかった。

ほとんど口をきかなくなってから、父と二人きりになるのは初めてのことだった。

車の中という狭い空間に、気まずい空気が充満する。

父と娘を乗せた車中では、地元のラジオとワイパーの音だけが響いていた。

意外にも、この空気を壊したのは父だった。

まだ、東京さ行ぐ気だんが?

ウィンカーの音がやたら大きく聞こえる。

……うん。ようやく二次面接なんだよ。

雪がフロントガラスに落ちては溶け、ゆっくりと下に流れて行った。

……ふーん。

ガラスに溶けた雪が、ワイパーに押し出されていく。

そんなのを見ていた。何度も、何度も。

それから再び車中は静まり返り、

ワイパーの音とラジオだけが響いたまま、駅に到着した。

……送ってくれてありがとう。
い……行ってきます。

父の顔を見ないようにして私は言った。

3秒ほど父の返事を待ったけれど、相変わらずの沈黙だった。

私は諦めて、助手席のドアを開けた。

そのとき、父が信じられないことを口にした。

まあ、落ちるように祈ってるからな。

はっとして父の顔を見たが、

父は、開いた助手席の先にいる私の方ではなく

ワイパーを見つめたままだった。 

落ちるように祈るって……。

何て言葉だ。

でもそれは、父の寂しさからくる愛情だとすぐに気がついた。

父はいつもあまのじゃく。

私が着物を着て着飾ったときだって

「ふん、馬子にも衣装だな」と言った人だ。

小さい頃は「可愛い、可愛い」と言っていたのに、

年頃になってからは一度も褒められた記憶がない。

本当はもっと、他の家のお父さんみたいに

「可愛いね」とか「綺麗だね」とか

素直に褒めて欲しかったのに。

でも、私も父に素直な態度ではなかったのでお互い様かな。

私は風変わりな愛の言葉を受け取り、

苦笑いをしながら助手席のドアを閉めた。

そして振り返りもせずに改札を通り、東京行きの新幹線に乗り込んだ。

誰が何と言おうと、私は東京さ行ぐ!!!

マフラーと手袋を取らないままドスンと座席に座ると、

誰にも見つからないようにそっと涙をぬぐった。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

東京ライフへ突然の衝撃

新しい年度になり

表参道で働き始めた私は、東京ライフを大いに楽しんでいた。

 

あんなに反対していた両親も、就職先が決まると諦めた様子で

前向きに応援してくれるようになった。

そのおかげで、私は思いっきり楽しむことができたのだ。

 

新しい生活は、何もかもが新鮮で刺激的だった。

足が痛くてもヒールを履いて満員電車で通勤したり、

お気に入りのカフェを見つけたり、

結婚の夢もつかむため、街コンに参加したりもしてみた。

もちろん、慣れない仕事が辛いときも

故郷が恋しくなる時もあった。

それでも私は

「ああ、東京にでてきて良かった」と

思えるほどこの生活を楽しんでいた。

時間はあっという間に流れ、

私は、少々派手目な花柄の夏服を着ていた。

 

その日も、コンクリートにこもった熱のせいか

夜までむっとした暑さがあった。

 

仕事が終わった夜の8時頃、母から着信があったことに気付く。

そしてメールも入っていた。

 

 「仕事が終わったら電話をください。」

何か嫌な予感がした。

心臓が急に早く動き出したのを感じた。

震える手で帰り支度をすると

何事もなかったように「お疲れ様」と言うと、

小走りで職場を後にした。

 

職場から出てすぐの路地裏に行き、

居酒屋の前にあるゴミ箱と向かい合うような形で

おそるおそる母に電話をかけた。

メールを読んだ後から嫌な予感はしていた。

でも

まさか

父が胃がん……に

なるなんてことは予想もしていなかった。

ぼうっとなりそうな娘としての自分に

看護師としての私が、すぐに背筋を伸ばさせてくれた。

そして母にこう伝えた。

胃がんか……。
でも、手術をした後長生きしている人は病院で何人も見てきたし、まあ、大丈夫でしょ。

看護師として多少の知識と経験があることを理由に、

自分と母を励ますためのセリフだった。

お父さんなら大丈夫。
うちのお父さんなら大丈夫!

私は、父が完治するための理由をいくつも並べ、

手術さえすれば治るのだと言い聞かせた。

実際、あっさりと胃がんの手術は終わった。

62歳の父は、まだまだ体力があった。

手術後一日目には病棟をスタスタと歩き、

それでも物足りずスクワットなどしていた。

「回復が早いですね」と驚く看護師に

得意げに笑って見せていた。

予定通り退院し、

すぐに仕事も復帰、大好きなゴルフも楽しんでいた。

以前のように食べ過ぎてしまうことだけが心配だったくらいだ。 

 

目で見えるがんの部分は手術で全て摘出された。

目に見えないがん細胞が悪さをするのを防ぐため、

これから経口で抗がん剤の投与もする。

まあ、よくあること。

胃がんの治療としては、ありふれた流れだ。

この事例はこれで終わりになるだろう。

そう、思っていた。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

運命の出会い

ある日突然、私に運命の出会いが訪れた。

それはもう、このために東京に出てきたのだ! と確信するくらい。

運命のお相手は女性。

そう。

理想の女性に出会ってしまったのだ。

自分に自信が持てず、恋愛下手な私は

気になる人に「彼女いるんですか?」というセリフさえも言えなかった。

それどころか、

目も合わせられないし、近づくこともできなかった。

こんな自分をなんとかしようと

「恋愛がうまくいく本」を読み漁っていた。

しかし、全く効果は現れない。

そんなときに、運命の女性と出会ったのだ。

彼女は40代。スタイルが良くて美しい。

旦那様ともラブラブだ。

会社を経営していて、バリバリ仕事もするけれど

少女のように笑う可愛らしい人だ。

何もかもが眩しくて

「こだな人、山形さ いねぇ」と

思わず方言が出てしまうくらい衝撃を受けた。

私もこんな人生を歩みたい!!!

私は彼女に喰らい付いた。

どうしたら、あなたのようになれるんですか!?

彼女は、くすっと笑い、

「昔の私を見ているみたい」と言った。

うそだ! うそだ!

こんな素敵な女性が

今の私のようにコンプレックスだらけのはずがない!

私は信じられなかった。

しかし、もっと信じられないことが巻き起こったのだ。

またも、運命の人と出会ってしまったのだ。

運命の女性が教えてくれた場所で、私たちは出会った。

今度は男性。

ちょっぴりボケていて、

よく反対方向の電車に乗ると話す彼は

『誰にも負けないたった一つの道』を見つけようとしていた。

いや、見つけてはいるが

『誰にも負けない』とは言い切れない

自信のない自分に、打ち勝とうとしていた。

私たちの出会いはまるで、

それぞれが大海原で遭難しかけたところを

豪華客船に助けてもらい、その船上で偶然出会ったようなものだ。

私と彼は、それぞれ目標は違えど、

『誰にも負けないたった一つの道』を

歩むぞ! という覚悟を持っていた。

だから私たちはその豪華客船の上で

自分を鍛える飛び切りの訓練を受けた。

私は、たった一度の訓練で

今までの自分は何だったんだ! と思うほど

自信を持つことができるようになった。

彼も同じだった。

そして

お互いに自信が持てるようになった私たちは

「どんなことがあっても乗り越えようね」と約束をした。

なぜなら私たちの目の前には、

『遠距離恋愛』という

さっそく大きな課題があったからだ。

彼は、関西に住んでいた。

仏師(仏像彫刻家)として独立したばかりの彼は

デパートの駐輪場でアルバイトをしながら何とか食いつないでいた。

お互い、しょっちゅう会えるほど

金銭的にも時間的にも余裕はなかった。

それでも私たちは、運命の出会いを信じ、

2人で乗り越えていくことを誓った。

結婚を前提にした交際がスタート。

私が30歳になる2カ月前のことだった。

やったーーー!
何とか30手前で、結果を出すことができたぞ!

彼氏もできたし、自信が持てるようにもなったし、本当、東京に出てきてよかったー!

私は浮かれていた。

これから大きな大きな波が押し寄せてくることも知らずに。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

天国から地獄へ

東京の冬は、毎日のように青空だった。

雪に囲まれて暮らす山形の生活なんて忘れてしまいそうだった。

彼とは遠距離恋愛だけれど

毎日のように電話やメールのやり取りをし

順調に愛をはぐくんでいた。

順風満帆。

このまま結婚もして、

『誰にも負けないたった一つの道』も見つけて、

幸せ一直線!

そう、信じ込んでいた。

一本の電話を取るまでは。

電話の主は母だった。

お父さん、最近吐き気が続いていて、ほとんど食べられないの。

しかし、毎月の検診では、がんの再発はないと言われているそうだ。

私は母に、看護師らしく指導をした。

高カロリーで口当たりの良いものを少しずつ摂るように、と。

お父さんなら大丈夫……。

私は、この不安を見ないようにして、

順風満帆な東京ライフを続けた。

しかし、父は日に日に食欲が落ち、どんどん痩せていった。

山形の3月はまだまだ雪が残っている。

卒業式に桜など咲かない。

むしろ、吹雪をお見舞いされるほど山形の冬は長い。

そんな頃、父は再入院した。

肥満を気にしていた父の腹は、えぐれるほどへこんでいた。

胃がんの再発だった。

再度手術を試みたけれど、

腹を開いてみてみたら手の施しようがないほど

がんは広がっていた。

信じられなった。

いや、信じたくなかった。

まるで、私が東京に出ていったために

父に不幸が降りかかったみたいに感じたからだ。

それに、看護師としての多少の経験で、

こんなに早くがんが進行するなんて考えもしていなかったからだ。

毎月の検診では異常がなかった。

しかも、私の父がだ!

誰よりも生命力があって、

頑固で短気で

病気には縁遠い人だ。

ちょっぴり肥満と高血圧はあったけれど

大きな病気なんて一度もしたことがなかった。

毎年人間ドックだって受けていたし、

運動の日課もあったし、

誰よりも健康そうだった。

そして何より、

憎まれ口をたたく人は長生きするとよく言うじゃないか!

そんな父が末期がんでいいはずがない。

何かの間違いだ。

看護師としての知識など吹っ飛び

私はこの事実を受け止められなかった。

知り合いの医師や看護師に相談しまくった。

がん治療では日本でトップと言われている病院2つにセカンドオピニオンに行った。

休みのたびに山形に帰り、父に会いに行った。

でも、末期がんは治らないのだ。

悔しくてたまらなかった。

せっかく看護師になったのに…。
家族を守れるように、看護師になったのに!

私が東京にさえ行ってなければ、もっと早く気づけたはずだ!
自分のことばかり考えていてごめんなさい。
……お父さんごめんなさい。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

闘病中の父のノート

花見の頃には退院できるかな?

と言っていた父だったが

その願いは叶わず

桜がすっかり散った5月になっても入院生活は続いた。

今まで白髪染めをしていたから気付かなかったが、父の頭は真っ白だった。

白髪の頭

あばら骨の浮き出た薄い胸板

より一層猫背になった背中

シワだらけの皮膚…

62歳の父は、90代の老人のような見た目になっていた。

私のよく知っている父の腕は

いつも日に焼けていて

車のオイルで汚れていて、

そしてたくましかった。

腕相撲も兄に負けたことがなかった。

そんな父の腕時計は、

穴2つ分きつくしてもゆとりがあるほどになっていた。

しかし父は体が弱っても、ほとんど弱音を吐かなかった。

末期がんが治ったら奇跡だろうな。

テレビに出られるかな?

なんて言っていた。

気持ちとは裏腹に、容赦なくがんは父を日に日に弱らせていく。

胸には点滴が入り、

鼻には胃の中の物を外に出すためのチューブがあった。

お腹にもこぶのようなものができ、

膿を出すためのチューブも留置された。

黄疸もでてきて、肌や目の色が黄色く染まっていった。

 そして毎日吐き気や痛みと戦っていた。

みるみる体力が落ち、

声もかすれて小さな声でしか話せなくなっていった。

目の前にいる

ひどくやつれた患者が

自分の父親と認めたくないときもあったくらいだ。

 父は、

「病気が治ったら」という話と

「俺が死んだら」という話を交互にしていた。

そこには、

希望は捨てられないけれど

死ぬ準備もしておかなければ、という意思を感じた。

常に仕事のことと、家族のことを心配していた。

自分が死ぬのが怖いとか、そういう話は一切しなかった。

看護師9年目の私は初めて気が付いた。

末期がんを宣告された患者様は、

毎日こんなことを考えながら過ごしていたのかと。

そんな患者様の背景や想いを

心から理解しようとしたことは

今まであっただろうか。

きっと、なかったんだろうな。

9年目で世間的にはベテランの仲間入りでも

私は、薄っぺらいままのキャリアを積んでいたのだ。

なにが『誰にも負けないたった一つの道』を見つけるだ。

一番大事なことも分かってなかったくせに……。

私は、以前のような自己嫌悪で弱虫な自分に戻りかけていた。

そんなとき、父があるノートを見せてくれた。

このノートは大事なことが書いてあるから覚えておいてけろな。

弱々しく、かすれた声だった。

 

そして、そのノートのある1ページを見せてくれたのだ。

「我が人生 咲くも散るにも道は迷わじ」

「我 死すと 妻と子供のこと気がかりなり」

家族を想った詩のような言葉が並んでいた。

意外だった。

父は、中学を卒業するとすぐに

整備の専門学校に進んだ、叩き上げの職人だ。

まるで教養はない。

そして、恥ずかしがり屋のひねくれ者だ。

そんな父が、詩を書いていたなんて。

今まで、素直に「家族が気がかり」なんて言ったことがなかったのに……。

そして

その詩の下には、

家族一人ひとりにメッセージが書かれてあった。

私に宛てた言葉はこの一文。

「ひとみよ。お前の花嫁姿……」

父は、私の花嫁姿を見るのが夢だったのだ。

今までは冗談みたいに

「あーあ、早く嫁に行ってくれないかな」なんて

茶化して言っていたけれど、

本当に、本当に花嫁姿が見たかったんだ。

文末の「……」の中には、

その夢が叶うまでは死んでたまるものか! という強い意志と、

その夢が叶わないかもしれない、という悔しさと、両方を感じた。

ノートを開いたまま動けずにいると、

ベッドに横たわったままの父が、視線だけをこちらに向けて言った。

点滴ひっぱったままでも結婚式に出られるかな?

その声は、小さくかすれていて弱々しかった。

でも顔は、ニヤリといたずらそうな少年のような笑顔だった。

もちもんだよ!
私の友達は医師や看護師がたくさんいるんだよ!
だからお父さんがどんな状態でも絶対に結婚式に出てもらうから!!

不思議と、父と娘は素直に自分の言葉を話せるようになっていた。

でも、

私があのタイミングで東京に出て行ってしまったことを

謝ることはできなかった。

私なりに覚悟して決めたことだったから。

それでも

そのせいで父ががんになってしまったのではないかと自分を責めていた。

その責任を埋めるためではないけれど、

何が何でも父の夢を叶えてあげたいと思った。

父に最高の親孝行をしたい!

その日の夜、私は泣きながら恋人に電話をした。

父に花嫁姿を見せたい、

けれどどうしてよいものか分からない……。

私は感情のまま、泣きじゃくり話した。

訓練を受け自信を持てるようになった二人とは言え、

まだまだ未熟だった。

泣きわめく私を電話越しに見た恋人は戸惑った。

どうしていいか分からない。

どうしていいか分からない……。

か細い絆で繋がっている恋人たちは、

この大きな波によっておぼれかけてしまった。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

父の夢を叶えたい。無謀だと言われても。

何とかして父に花嫁姿を見せたい。

しかし、偽物の花嫁姿では意味がない。

様々な課題があった。

まず初めに、

お互いの両親にはまだ顔を合わせていなかったため

挨拶に行かなくてはならなかった。

私は関東に暮らし、私の実家は東北。

そして彼の実家と住まいは関西。

父の寿命は恐らくあと3カ月弱という時期だった。

意識がはっきりしている時期は

もっと短いだろうと主治医に言われていた。

ただでさえ、金銭的にも時間的にも

余裕がなかった。

それでもなんとかこの短い期間に、

関西と東北を行ったり来たりし

お互いの両親に恋人を紹介し合った。

しかし

1~2か月の間に急いで結婚式をするという案は通らなかった。

焦る恋人たちは、

意見がぶつかり合い大喧嘩の連続だった。

ただでさえ

出会ってから日が浅い遠距離恋愛のカップルだ。

いつ壊れてしまっても、おかしくはなかった。

父の容態も日に日に悪くなっていった。

起き上がれる時間も短くなり、

体力がみるみる落ちていっていた。

正直焦っていた。

それでも私たちは

「どんなことがあっても乗り越えよう」と

約束した出会いの日を思い出し、

なんとか一つの目標に向かって協力することを覚えた。

何としてでも父の夢を叶えたい。

なんとかして花嫁姿を見せたい。

妥協はしたくない。

でも、どうしたら……。

私たちは考えた。

そして

「結婚式」は今後の父の希望にとっておきながら

「花嫁姿を見る」という夢を叶えるための方法を、ようやく見つけた。

それは、

父のいる山形でブライダルフォトを撮ること。

そしてその撮影スタジオに父に来てもらい、

「結婚の許しをください」と誓う

というものだ。

私たちはこれを「婚約式」と呼んだ。

地元の同級生が、

ブライダルフォトの企画をしているという情報を聞き、すぐに依頼した。

私たちは綿密に打ち合わせを行った。

どんな流れで誓いの言葉を言おうか、

体力が落ちた父をフォトスタジオに連れてくるが

あまり長時間だと疲れてしまうため、どのタイミングで連れてくるといいか、

疲れた時には横になって休む場所はあるのか……。

私は末期がんの父を持つ娘として、

そして

看護師としての視点で作戦を考えた。

離れ離れに暮らす私と恋人と両親。

限られた時間を調節し、なんとか計画を立てた。

彼が前日に関西から私の住む関東まで移動し、

当日山形へ一緒に行く計画だ。

準備は万端。

私たちは大波を乗り越えた。

これで父の夢を叶えられる!

そう信じていた矢先のことだった。

 

*・*・*・*・*・*・*・*・*

試練

私と恋人は予定通り

6:12東京駅発 新庄行の山形新幹線に乗り込んだ。

日頃の仕事と看病の疲れもあり

私は新幹線に乗り込むとすぐに眠り込んだ。

眠った私を乗せたまま新幹線は北上し、

栃木を抜け、福島県に入った。

そのとき、突然アナウンスが流れた。

いや、

正確に言うと流れていたらしい。

熟睡していた私は

隣に座っていた恋人に起こされ

衝撃の言葉を聞かされた。

恋人

この新幹線、山形には行かへんって!
行き先を仙台に変える言うてた。
今朝起きた地震の影響やって!

え?

寝ぼけていた私は理解不能だった。

もう一度恋人に説明してもらい

ようやく事を理解した私は、パニックになった。

どうしよう、どうしよう、どうしよう。

恋人も焦っていたが、

どうにか私を落ち着かせてくれた。

とにかく、病院に付き添っている母に連絡を入れることにした。

そこで私はさらに驚くべき事実を聞かされる。

母は、電話口で落ち込んだ声で言った。

父が今朝から40℃近い熱を出しているというのだ。

もちろん、外出の許可は出せない、と。

え……。

動揺を隠せなかったが、

とりあえずフォトスタジオに連絡をしなければと思った。

そこで私はさらにどん底に落とされた。

写真家さんが夕方から出張が入っており、

大幅に時間が遅れる場合は

撮影できないかもしれない、とのこと。

え……!?

なんで、どうしよう。

なんで! なんで! なんで!

父には時間がないのに!

父の夢を叶えるために、ここまできたのに!

母は諦めたように言った。

今日は無理じゃないか、と。

フォトスタジオ側も、

到着時間が見込めない以上何とも言えないとのこと。

ミッションが「失敗」の方向に動き始めたのを感じた。

なんでこんなトラブル続きなの。
もうだめだ。
できないよ。

私たちの混乱を無視し、新幹線はホームに到着した。

山形の新庄駅にいるはずだった私たちは

宮城県の仙台駅に強制的に降ろされた。

懐かしさも何もない見知らぬ街。

私の故郷ではないこの地で、絶望を感じた。

私は、新幹線から降りると、そのままホームで泣き崩れた。

地べたにしゃがみ込み、下を向いて泣いた。

コンクリートに自分の涙がポタポタと垂れたのを覚えている。

しゃがみ込んだ私の隣に恋人が呆然と立っていた。

どれくらい泣いただろうか。

全員が「失敗」を予感し、弱気になっていた。

そのとき、恋人が口を開いた。

恋人

ひとみはどうしたいん?
何がなんでもおとうさんに
花嫁姿を見せたいっていう覚悟はあるん?

……ある。

恋人

ほな、今日しかないで。
おとうさんの状況を考えると
もうこの先チャンスがあるかどうか分からへんで!

このとき

私の心の中のベクトルが「成功」へと切り替わった。

状況は何も変わらない。

ただ、「成功」へ行くという覚悟をした。

……絶対に今日決行する。
何としてでもやる。
お父さんの夢を叶えられないなんて絶対に嫌だ!

恋人

ほな、やろう! 何としてでもやろうや!
まずは、フォトスタジオとおかあさんに伝えやなあかん。

……はいっ!

涙はいつの間にか止まっており、

急変時に冷静沈着に対応する看護師としての私がいた。

手早く、合理的に、やるべきことのリストアップと連絡を行った。

それは

心臓が止まった患者を助けるために

医療スタッフが一分一秒を無駄にせず、対応する動きに似ていた。

そういった合理的な対応は、

9年間の看護師生活で十分に培ってきた。

私は、この現場のリーダーだ!

何がなんでも

父の夢を叶えるために前進するのみ!

試練がきたのだ。
でも、そんなのに絶対に負けない!

リーダーの熱意が伝わったのか、

気が利くチームメンバーたちは、すぐに対応をしてくれていた。

母とフォトスタジオさんが

同時に病院側に事情を話してくれていたのだ。

「今日しかないんです!どうかお願いします!」

私たちも、駅員さんに懇願し、

最速で確実に目的地に行けるルートを探した。

そして、奇跡が起きた。

病院のご厚意で、病室を一部屋空けてくれることになったのだ。

そこで父と対面させてくれるというのだ。

 

普通ではありえない。

私も看護師だからよく分かる。

日々の忙しい業務の中で、

突然このようなお願いをされ

すぐに病室を一部屋空けるなんてことは至難の業だ。

よっぽど大変な思いをして

部屋を空けてくれたに違いない。

周りの皆の全力の協力を感じ、

天も味方についてくれたようだった。

私たちも、運よく迂回ルートが見つかり

問題のない程度の遅れで目的地に着いた。

トラブルを乗り越え、

私たちはようやくスタートラインに立った。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

偶然生まれた病院ウエディング

私たちのために片づけてくれた病室は

ベッドや点滴スタンドなど、

いかにも「病院」というものが

すべて片づけられていて

明るい綺麗な部屋になっていた。

まさにブライダルに相応しいその部屋で、

新郎新婦はこっそりと着替え、スタンバイをした。

「はい、どうぞ。」

合図とともに、母に押されながら車いすで父が現れた。

「ご対面!」

カーテンがシャッっと開けられた。

父の前に花嫁姿の娘が現れた。

対面をするとすぐに父と娘は泣き崩れた。

父は、時計がやけに大きく見えるその細い腕で、涙をぬぐった。

綺麗だ……。

聞こえるか聞こえないかの小さな声で

父は独り言のように呟いた。

素直に私を褒めない父が「綺麗だ」と言ってくれたのだ。

私は涙が止まらなくなった。

そんな父と娘に、母親が声をかけた。

さあさあ、
始まる前に泣いたらせっかくのお化粧が崩れるよ。

そう言っている母も泣いていたけれど、

私は素直に母の言うことを聞いて泣き止むことにした。

そして

少しかしこまったように恋人たちと両親が向かい合い

病院ウエディングは執り行われた。

恋人が、未熟者で心配なこともあるけれど二人でやっていきます、と父に誓った。

私も、父に似たこの人と一緒になりたい、と伝えた。

そして父が、ゆっくりと小さな声で話し始めた。

「ひとみ」という名前は、私がつけた。
一点の曇りもない澄んだひとみという意味をこめて。
娘が生まれたら絶対に「ひとみ」とつけようと、産まれる前から決めていた。

お前は、私に似て気が強く育った。
「最初からだめだ」と諦めないで
挑戦するところがある。

篤人くんも自営業だけど、自営業は大変だ。
上手くいかないときだってでてくる。
私もそうだった。

そんなときは
ひとみ、お前がしっかり支えなさい。

夫婦で協力し合い、頑張りなさい。
我慢することもあるだろうけれど、
2人で乗り越えなさい。

実際の父の声は、かすれていてとても小さかった。

ただでさえ弱り切った体になってしまったのに

発熱もしていたからだ。

でも、私には力強く聞こえた。

そして

父の言葉を聞きながら、

色んな事を思った。

幼い頃の父と私。

大人になってからも仲良く過ごした家族との時間。

看護師になってからの苦悩とやりがい。

素直になれないけど、愛情たっぷりな父と娘。

恋人と喧嘩をしながら、今日の計画をしたこと……。

父は、他にもたくさんの言葉をくれたけれど

途中、涙と病でかすれた声で聞き取れないところもあった。

しかし、最後まで堂々と語った。

病院のスタッフも喜び、感動してくれた。

私も、看護師としての仕事中

このような式があったら一緒に感動して泣いていただろうな、と思った。

涙をぬぐっていたり、最高の笑顔の医師や看護師を見ていたら、

さらに涙がこみ上げてきた。

かしこまった病院ウエディングのあと、

私と恋人は、車いすの父と目線を合わせるようにして話した。

いい人と出会えて良かったな。
この人と出会えたんだから
東京さ出していがった。

私はまた泣き崩れてしまった。

ずっとずっと気にしていたから。

私が東京に出ていったせいで、

父が末期がんになってしまったのではないかと

自分を責め続けていたから。

そうだね、お父さん。

あのとき勇気を出して東京に行っていなかったら

恋人とは出会えていなかった。

そして、

どんなに試練が訪れても乗り越えられる

『めげない心』を身につけられたのも、

あのとき東京に行ったからだよ。

最後に父は、恋人と握手をしてこう言った。

娘を頼んだよ。信じているからな。

恋人は泣き崩れた。

仏師として独立し、

自分一人が食っていくのに精一杯な状況だというのに

「信じている」

と言ってくれたからだ。

「信じている」

この言葉は、「頑張って」とか「応援している」とか

そんな言葉よりも重みがあり、

そして何よりも励みになる言葉だ。

「信じている」と言った父の目は、

会場にいる誰よりも

生命力に溢れていて力強かった。

やせ細った父の腕が

以前のようなたくましい太い腕に見えた。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

誰にも負けないたった一つの道を歩く

 

病院ウエディングの約1か月後、父は他界した。

それからしばらくして、私たちは結婚式を挙げた。

あのとき父に誓った通り、

私たち夫婦は、協力し合い様々な試練を乗り越えている。

夫は、仏師として『誰にも負けないたった一つの道』を

貫いている。

駐輪場のアルバイトも辞めた。

今では、私と生まれたばかりの娘を

しっかりと守ってくれている。

私は相変わらず看護師を続けている。

でも、

あの病院ウエディングのおかげで

『誰にも負けないたった一つの道』を見つけることができたのだ。

あの日、父はこんなことを言っていた。


「生きていてよかった。

こんな良い体験ができるなんて……」

私はこの言葉を聞いたあと、

自分の道を見つけた。

この、病院ウエディングのような感動の体験を

医療の現場でもっと多くの人に

味わってもらいたい。

今までの私のように

薄っぺらではなく、心から患者様に寄り添い、

「この人が生きていてよかった」と思うことは何かと考え、

そしてその感動を提供したい。

「病気になったからこそ感動的な体験ができた」と思えるほど、

前向きに最期まで希望を持ってほしい。

父も、この病院ウエディングのおかげで

最期まで希望を持ち続けることができた。

「本物の結婚式も出るぞ!」と。

だから私は、

看護師としての枠を超え、

多くの人に感動を提供し続けると決めた。

でも、

どうやってこれを叶えたらいいのか分からない。

でも、それでも、私は決めたんだ。

だから、このストーリーを書き始めた。

ここからどう進んでいくかは分からない。

しかし間違いなく

これは私の『誰にも負けないたった一つの道』だ。

お父さん、

『誰にも負けないたった一つの道』見つけたよ。

だから、ちゃんと見ていてよ。

お父さん、ありがとうね。

父は

今の私の姿を見て何て言うかな?

きっと……

「まずまずだな!」

という最高の褒め言葉をくれるに違いない。

*・*・*・*・*・*・*・*・*

最後までお読みいただきありがとうございました。

▼夫の人生のストーリーはこちらです。面白くて、根性のあるストーリーです。

マクドナルドで役立たずだった僕が、仏像彫刻家として生きて行くまでの話

著者:土田 ひとみ (from STORYS.JP)

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