⑪江上天主堂とその周辺(五島市) 奈留島の江上集落 ひそかな信仰の終焉

 車がトンネルを抜けると、廃校になった小学校があった。グラウンド奥の木立の隙間から、白い江上天主堂の姿が見え隠れしている。小さな集落は物寂しく、身を切るような北西の寒風が容赦なく海から吹き付けてくる。人里離れた谷あいの地を切り開いて暮らした潜伏キリシタンの労苦がしのばれる。
 江上集落がある奈留島は五島列島の中央に位置する。巻き網などの沿岸漁業が盛んで、1960年の人口は9300人を数えた。だが、漁業の衰退と過疎化の進行で現在2300人に減っている。
 奈留島には18世紀末以降、江戸幕府の禁教令の下でひそかに信仰を続けていた長崎・外海(そとめ)地区の潜伏キリシタンが移住してきた。彼らは仏教徒の集落から離れた未開地を開発し、島のあちこちにキリシタン集落を形成した。
 島西北部の江上には4家族がたどり着いた。移住者は、現在廃校のグラウンドになっているわずかな平地に水田をつくり、斜面に家を建て、半農半漁の生活を営んだ。1970年には28世帯、109人が暮らしていたが、今や残るのは3世帯だけで、集落は風前のともしびといえる。

■集団で復帰

 1868年、五島・久賀島の潜伏キリシタンが、禁じられていた信仰を表明したのをきっかけに、五島列島に「五島崩れ」と呼ばれる迫害の嵐が吹き荒れた。奈留島の北に浮かぶ葛島(かずらしま)にも弾圧が及んだが、奈留島では大半のキリシタンが信仰を隠したままだった。
 1873年の信仰解禁後も、奈留島の潜伏キリシタンの多くはカトリックに戻らず、「かくれキリシタン」になって禁教期の信仰形態を保ち続けた。ただ、葛島と江上のキリシタンは宣教師の布教を受け入れ、カトリックに集団復帰した。
 江上では1881年、フランス人のブレル神父が住民に洗礼を授けた。江上の信徒は1906年、まず民家を移築した簡素な教会をつくり、その12年後に現在の江上天主堂を建てた。建設を主導したのは、上五島の潜伏キリシタンから司祭になった島田喜蔵神父で、「教会建築の父」といわれる上五島出身の鉄川与助に設計施工を委ねた。
 天主堂の建設費は当時の金額で2万円に上った。労働奉仕や負担金に耐えかねて江上を去った信徒もいたという。信徒は目の前の大串湾で、隣の仏教集落の住民と協力してキビナゴの地引き網漁にいそしみ、建設資金を蓄えた。

■教区で守る

 江上天主堂は木造教会の完成形といわれる鉄川の代表作だ。海に近く、背後に水が湧き出る地勢を考慮し、湿気を逃す高床式を採用している。内部は教会独特の「こうもり天井」を持つ。信徒が手書きした窓ガラスの花模様や柱の木目も味わい深い。

 国は2008年、江上天主堂を重要文化財に指定した。五島市は教会だけでなく集落全体を保護するため、江上と隣接の大串地区を国の重要文化的景観に選定すべく準備を進めている。
 かつての江上天主堂では、クリスマスのミサに周辺の葛島、有福(ありふく)島、久賀(ひさか)島などからも信徒が船でやって来て、中に入りきれないほどだった。しかし、ほとんどの住民が去ってしまった今、教会周辺は静寂に包まれている。

 現在、江上天主堂を守るのは奈留小教区の信徒たちだ。毎月第3日曜に10人前後の信徒が集まり、ミサをささげ、建物をきれいに清掃している。

 天主堂に入ると、日付や名前などを壁の一角に無造作に書き付けた落書きが目に留まった。かつて行政側は消すように求めたが、信徒はきっぱり断った。奈留小教区議長の葛島(くずしま)幸則さん(64)は「教会は私たちにとって文化財でも世界遺産でもなく、先人が厳しい暮らしの中で苦労して建てた祈りの場。書き付けは私たちにとっては落書きではなく、先人の信仰の証しなんです」と語る。
 教会は目に見える信仰の形であり、信仰を隠して生きた潜伏キリシタンの伝統が終わったことを意味している。彼らの痕跡を追い続けてきた「旅」も終わりを迎えようとしている。

◎メモ

長崎港から福江島の福江港までジェットフォイルで1時間25分、フェリーで3時間10分。福江港から奈留島の奈留港ターミナルまで高速船で30分、フェリーで45分。同ターミナルから江上天主堂までタクシー、バスで20分。同天主堂の見学は長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター(電095.823.7650)に事前連絡が必要。

◎コラム/小さな集落の大きな心

 カトリック長崎大司教区の古巣馨(ふるすかおる)神父(63)から興味深い話を聞いた。神父は奈留島生まれで、祖父は「かくれキリシタン」の洗礼を授ける「水方(みずかた)」という役職者だった。

 神父によると、奈留島のキリシタン集落の人々は、「家船(えふね)」と呼ばれた人々と交流していた。家船とは船上で生活しながら漂泊して漁をした漁民集団で、かつて西彼杵半島や五島列島などを根拠にしていた。

 家船は江上や宿輪(しゅくわ)などの集落にやって来て、海産物と農作物を交換した。差別の対象になっていた家船だが、集落の人々は嫌な顔一つせず、家に上げて風呂に入れたり、教会のミサに連れていき一緒に祈ったりした。

 「江上の人たちは差別せず、偏見も持たず、壁を作らなかった。今で言うグローバリズム」と古巣神父は言う。小さな集落の住民が持ち合わせていた広く大きな心は、異文化理解の旗印でもある世界遺産にふさわしいといっていい。

海沿いの狭い谷あいに形成された「奈留島の江上集落」=五島市奈留町大串(小型無人機ドローン「空彩2号」で撮影)
湿気が多い地勢に適応し、高床式になっている江上天主堂=五島市奈留町大串
木立の中にたたずむ江上天主堂=五島市奈留町大串

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