【片言隻句】あの帽子、どこへ行った?

 「喉もと過ぎれば熱さ忘れる、だな」と業界歴50年の元経営者がつぶやく。

 昨秋、長年続けてきた社長業を辞めた。所有していた会社の株式もすべて譲渡し、フリーの身に。社長時代はワンマン経営でとどろいたが、実はさまざまなことに気を使い満身創痍。血糖値が高く、手術するとともに鍼治療にも専念し、ようやく体調が回復してきた。すると、あれだけ神経をすり減らしたのに、社長業が恋しくなるらしい。

 その氏が、黒い毛糸の帽子をかぶり直し、室外へ出る。今年の冬は近年では有数の寒さ。帽子のかぶり方もひときわ深い。行先はスポーツクラブだ。「黙っていると、体力がみるみるなくなる。少しは運動しないと」。

 外へ出るなり、かつての若手社員に偶然出くわした。相談に乗り、励ましの言葉をかけた記憶がよみがえる。

 しかし、その若者の視線はことのほか冷たい。出くわしたことがアンラッキーであるかのような態度。

 「仲人もした。ケンカの仲裁もした。家族のさまざまな相談も聞いた。それを、そのときは恩義に感じたかもしれないが、会社を辞めればすべてがリセットされる。何もなかったように。そんなもんだよな」とつぶやきは続く。

 しかし、時代のせい、若手のせいとばかりは言えない。そういう職場環境を知らず知らずにこの元経営者自身が築いてきたのかもしれない。自分も似たような対応を先達にしたのかもしれない。会社の体質とはそのように、積み重なってできているのかもしれないのだ。

 だが、すべては後戻りできないこと。氏は口笛を吹きながら買ったばかりの愛車に乗り込み、アクセルペダルを踏み込んだ。

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