「星野はタフな男だった」 NPB初現役メジャーリーガーが秘める日本愛(下)

インタビューに応じたジム・マーシャル氏【写真:盆子原浩二】

元中日ジム・マーシャル氏へ単独インタ、今も秘める日本への熱い思い

「日本プロ野球初の現役メジャーリーガー」として知られるジム・マーシャル氏が、Full-Countの独占インタビューに応じた。1950年にプロ入りし、オリオールズ、カブス、ジャイアンツ、メッツ、パイレーツの5球団で内野手としてメジャーキャリアを積んだ同氏は、1963年に中日に移籍。3年間で通算408試合に出場し、打率.268、78本塁打、252打点の好成績を残した。

 引退後はカブス、アスレチックスで監督を務め、その後、中日に1軍総合コーチとして復帰。アスレチックスではリッキー・ヘンダーソンをメジャーデビューさせたことでも知られている。86歳となった現在も“日本愛“を持ち続ける同氏は、自身のキャリア、日本の選手や今年初めに急逝した星野仙一氏との思い出などについて語ってくれた。後編。(聞き手・盆子原浩二)

――日本の経験を振り返って、印象に残っている人は?

「全員のことを覚えている。長嶋(茂雄)、王がドラゴンズのスタジアムに来て、いつも私の妻に挨拶してくれていた。何年も経ってから、私の息子に会ったらしく、その時、昔に一度伝えた息子の名前を覚えていた。特別に1日中、長嶋と時間を過ごすことができ、息子も喜んでいたし周りは本当に羨ましがったそうだ。

 たくさんのメモリーがある。全て覚えている。私の妻も日本が大好きだ。当時から交流も多く、いつも笑顔だった。海外に行く時、大変なことは多いが、良き妻を持つことはとても大切だと学んだ。

 そう、君は板東(英二)って覚えているだろう? 彼はピッチャーで、とても面白くていいやつだった。現役が終わっていつだったかな。電車で彼を見かけたんだ。その時に彼はもう有名になっていた。そこで、彼に私は伝えた。首がとても痛いと。なぜと聞かれ、私はいつも守備の時に振り返り、彼が打たれたホームランがスタンドに入るのを見なければならなかった。板東が投げていた試合はホームランが多かったからだと。そうすると彼は笑っていたよ。

 そして星野(仙一)――。とてもストロング! タフな男だった。彼は(ダイヤモンドバックス初代監督の)バック・ショーウォルターととても仲が良かった。彼らとはとてもいい思い出がある。歴史の中の偉大な人物を失った。彼はとてもアグレッシブなピッチャーだった。彼と山本浩二は同じ頃に大学に行ったので仲が良く、試合前は会って親しそうに話していた。だが、いったん試合が始まってから内角をぐんぐん攻めるので山本はよく倒されていたね。私はそれを見て笑っていたものだよね。残念だね……」

忘れられない川上監督との握手「特別な気分になった」

――ライバルのジャイアンツは?

「川上監督が1963年にオールスターゲームのサードコーチャーだったことを覚えている。確か神宮球場だった。ホームランを打ち、ベースを回っている時に握手してくれるか不安だったが、彼はしてくれたんだ。特別な気分になったよ」

――1981年にコーチとしてドラゴンズのコーチとして日本に行ったきっかけは?

「それはチャンスがあったからだよ。近藤(貞雄)監督から電話があり、『ジムのハッスルプレーを気に入っている』と言ってくれたんだ。『それをチームに教えてやってくれ』ってね。近藤監督とはとてもいい関係が築けたよ」

――82年に中日が優勝した時にプレーしていた谷沢健一さんの娘さんがダイヤモンドバックスで働くことに。何かの縁ですね?

「信じられないことだよね。スモールワールド!! 小さい世界だよ。彼女はずっとメジャーに憧れていて、ダイヤモンドバックスに入った時に連絡をくれた。彼女には心から成功してほしいと思っているよ」

――ダイヤモンドバックスに今シーズン入った日本人選手の平野佳寿については?

「今はまだあまり情報がないが、速球がよく、スプリッターが2種類と。ストライクが取れる限りは成功するだろう。8回か9回を任されるかはわからないが、監督が決めるはずだ。いい時間を過ごしてほしいと思っている」

日本では「メジャーにいた時と同じくらい素晴らしい時間を過ごした」

――日本でプレーした経験を振り返って。

「日本は私の人生の中でとても大きな部分を占めている。6年いたのか、私だけではなく家族も楽しんでいた。メジャーにいた時と同じくらい素晴らしい時間を過ごしたんだ」

――あなたのハッスルプレーはどこから?

「こう言ってはなんだが、ハッスルしないくらいならプレーしない方がいいくらいだ。私の父は大学で野球をプレーしており、ハッスルプレーをしていた。いい監督に出会い、いい選手に出会ってきた。たくさんの出会いがあり、とても幸運な男だと思っている」

――将来に向けては。

「私は66年間、プロのベースボールに関わっている。私のキャリアが終わる前に、日本へ行き、日本のみなさまと歴史を共有できたらと思っている」

――日本食はどうですか。

「好きだよ。変かもしれないが、野菜がとても美味しいと感じた。いつも質が高い状態で手に入る。あとは松阪ステーキ。名古屋だったので、とてもいい記憶を呼び戻してくれる」

――個人的なことですが、10歳の頃からのアイドルでした。このような時間をありがとうございます。

「私にとって日本での経験は尊いものであり、その経験の話ができたことは嬉しい。日本にいた時は、周りの仲間たちがいつも気遣ってくれた。とても感謝しているし運が良かった」

(Full-Count編集部)

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