故松田秀夫氏(松田商工創業者)を悼む

 厚中板の剪断・溶断から開先、穴あけ、曲げといった各種二次加工を経て溶接・組立までを一気通貫で行う複合一貫機能を確立した松田商工の創業者・松田秀夫氏が、88年の生涯を静かに閉じた。

 勤勉実直で商売熱心。何より「稼ぐ」ことに真剣だったし、貪欲でもあった。弟分として長く親交のあった金森秀男氏(金森興業)によれば「あんちゃん(アニキ)は生まじめ過ぎるくらいまじめ。朝から晩まで休みなく働き、忙しければ休日も厭わず、事務作業が終わらなければ自宅に持ち帰って伝票をまとめるなんて日常茶飯事だった。あのまじめさは誰も真似できないし、それを貫いたからこそ事業で大成できたんだ」と。

 そんな仕事一辺倒も、大好きな「お酒」にはめっぽう弱く、あるとき酔いが回って自宅の玄関前で寝込んでしまい、心配する家族から大目玉を喰らったことも。堅物だけじゃない、そんな人間味も魅力だったし、人から慕われたが、その失敗を機に「もう日本酒は飲まん」と決め、それ以降は「酒と言えば焼酎」に。一度決めたら軸をぶらさないところも〝らしさ〟だった。

 北海道に生まれ育ち、小樽の商業高校を卒業後、国鉄に就職する。新米時代、占い師から「鉄道員よりも金属関係の仕事が向いている」と言われたそうだ。のちになって「鉄屋になる運命だったのかな」と振り返りながら笑っていたことを思い出す。その後、上京し、亀戸の地で創業。早くにシャーリングに目をつけ「加工」で一時代を築いた。そのDNAは学社長、明副社長がしっかりと受け継ぎ、基盤をさらに拡充・深掘りしながら堅実経営路線を踏襲している。

 第一線を退いたあと 年齢とともに足腰が弱り、晩年は車椅子生活だったが、気心知れた友人とのつきあいが何よりの楽しみであり、筆者もたまにその輪に加わらせていただき、昔話に沸く大御所たちの語りを聞かせてもらったのは財産だ。国鉄入退社や解体業での丁稚奉公、運転免許取得…。若い頃の話が多かったが、それだけ苦労も多かったのだろう。

 昨年12月。呼吸の乱れが多くなり、大事を取って入院。このとき家族は「最期」も覚悟したという。ただ、長患いもせず安らかに天寿を全う。今は天国で息子たちが切り盛りする社業の繁栄を、やさしく見守っていることだろう。ご冥福をお祈りする。(太田)

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