実直貫いた表現者 大杉漣さん【評伝】 古里・徳島への思い変わらず

大杉漣さん

 ぶれない生き方を終生貫ける人がどれだけいるだろう。俳優の大杉漣さん(徳島県小松島市出身)が21日に66歳で亡くなってから28日で1週間。大杉さんは、表現者として、人間として、実直であり続けた人だった。

  1997年、北野武監督の「HANA―BI」がベネチア映画祭でグランプリを受賞した際、準主役の大杉さんにインタビューをさせてもらった。それが出会いだった。 この時のインタビュー記事で大杉さんは、「人との出会いを大切にして、常に刺激を受け続ける役者でいたい」と語っている。 その言葉通り、芽が出た後も決しておごらず、低予算の映画でもこれはと思えば出演し、音楽など新たな分野にも挑戦してきた。

 大杉さんの魅力と言えば、心地よく響く低音の声。しかし、表現者大杉漣の真骨頂は、静謐なたたずまいや、複雑な感情を表情一つで伝える「言葉に頼らない演技」にある。

 北野作品に出演する以前、周防正行監督の成人映画で「東京物語」の笠智衆(りゅうちしゅう)を彷彿させる老父を演じた。大杉さんが目指したのは笠智衆のような、そこにいるだけで絵になる役者。もう少し年齢を重ねれば、さらなる高みに達したと思われるだけに、余計に早世が惜しまれる。

 近年、目覚ましい活躍を続けた大杉さんだが、古里徳島や旧友を大切にする心は変わらなかった。 

 ある時、飲み会の誘いを受けた。場所は城北高校時代の友人が営む徳島市内のバー。じきに店をたたむということで、大杉さんは同級生らと集まっていた。既に人気俳優の仲間入りをしていたが、気が置けない友人たちに囲まれた大杉さんは心底幸せそうだった。

 実家の家族も大事にした。古里での上映会やトークショーでは、いつも最前列の席に母マサさんを招いていた。2007年に92歳で他界したマサさんは、最晩年までステージ上の息子を優しく見守った。端役時代から、どんなに小さな役でも「お前が一番良かった」と励ましてくれた母のことを、大杉さんはよく語っていた。

 私にも忘れられない思い出がある。初めてのインタビュー記事が掲載された後、突然、「大杉です」と電話があった。「『HANA―BI』でたくさんインタビューを受けたけど、一番いい記事だったよ」。そう言葉を掛けてくれた。

 今にして思えば、役者として日の目を見た大杉さんは、家族や旧友の目に触れる故郷の新聞に載ったことが何よりうれしかったのだろう。 きめ細やかな気配りで、いつも周囲を励まし、勇気づけた大杉さん。あの笑顔をもう見られないと思うと、寂しくてならない。(編集委員・藤長英之)

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