ハマ“寄港”半世紀 横浜中華街にあるギリシャ

◆船乗りたちの往還 思い出とともに古里の風情を守る 中国の旧正月「春節」を迎え、観光客で活気あふれる横浜中華街。赤いちょうちん「紅灯」がずらりと並ぶ善隣門の近くに、白亜のパルテノン神殿を模したギリシャ料理店とバーを兼ねた「アテネ(ATHENS)」がある。オーナーのジョージ・マルケジーニスさん(76)は元船乗り。横浜暮らしは半世紀近くになる。日本語と英語、時折ギリシャ語を混ぜながら「ベリーベリー好きネー」と、横浜への思いを語り始めた。

 ギリシャ西部のイオニア海に浮かぶレフカダ島の出身。作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を生んだ小さな島で、多くの若者たちは昔は船乗りになる道を選んだ。ジョージさんも18歳で貨物船に乗り組んだ。初来日は1960年。横浜港は高度経済成長期を迎えて、貿易取扱量が急速に増えていた。

 当時、貿易の中心地だった新港ふ頭では貨物船がずらりと着岸し、沖合には艀(はしけ)を使って積み荷を上げ下ろしする貨物船であふれた。そうした荷役作業のため、1カ月ほど出港を待たされた。

 ギリシャ船籍の貨物船が頻繁に訪れ、30人ほどの船員は全員ギリシャ人だった。横浜港で別の貨物船に移る人も多く、「ギリシャ人の船乗りは横浜に3千人はいたヨー」と振り返る。

 船員たちは新港ふ頭から万国橋を渡り、イセザキ・モールを通って中区曙町に向かった。鎌倉街道沿いの一帯には古里の料理や酒を出す「ギリシャバー」が多くあり、ギリシャ人コミュニティーができていた。

 「1ドル=360円の時代。楽しく飲んで過ごしたヨー、エブリディー」と懐かしむ。

 曙町には今もギリシャバーが残る。64年創業のパブレストラン「アポロ」のマスター石原清司さん(79)は56年から1階にあった「スパルタ」でボーイとして働いていた。ジョージさんとは20代からの付き合いだ。

 スパルタでは30人ほどの女性が働き、船が着けば多くのギリシャ人船員で翌朝までにぎわった。石原さんは「若い頃のジョージ? そりゃ、格好良かったよ」と目を細める。

 船員の中にはバーで働く女性と結婚してギリシャバーを開く者もおり、最盛期には30〜40軒が並んだ。ジョージさんも美しい女性に恋をして70年に船を降り、中郵便局近くでバー「レフカダ」(現在は閉店)を開いた。

 商才を発揮し、その後も次々に事業を展開。85年に「アテネ」を、2001年にショットバー「ゾルバ(ZORBA)」をいずれも中華街にオープン。05年からは関内でギリシャ料理店「オリンピア(OLYMPIA)」も経営する。

 アテネの扉を開けると木製の調度品が並び、ギリシャの街角のバーにいるような雰囲気に包まれる。ジョージさんはほぼ毎晩、カウンターでウイスキーのボトルを空けながら常連客らとの語らいを楽しんでいる。

 最近はウオーキングに凝り、週末には横須賀や丹沢などを巡って1日に5万歩以上を歩くことも。横浜にいた元船乗り仲間は飲み過ぎて亡くなり、ジョージさんが残された。「愛する横浜とギリシャのために、いつまでも健康でいたいネー」と言い、ロックグラスのウイスキーを飲み干した。

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