三浦から震災を考えるー風化させぬ、支援の灯火 三浦市

被災犬「かずお」を見つめる蛭田さん

 未曾有の被害をもたらした東日本大震災からまもなく7年。東北の被災地では、街並みや生活の再建など日常を取り戻すための歩みが進む一方、記憶の風化や経年に伴って変化する支援ニーズへの対応、目には見えない傷に寄り添うことの大切さが叫ばれている。今、各地ではどのようなボランティア活動が行われているのか。今日に至るまで三浦市から支援の輪をつなぐ2人に活動へ対する思いを聞いた。

いまやらねば、いつできる 蛭田(ひるた)満理さん

 初めて東日本大震災の被災地を訪れたのは、2012年4月だった。「メディアや伝聞ではなく、自分自身の目で確かめ、多くの人と思いを共有したい」と、宮城県南三陸町を訪れるスタディーツアーに参加した。「決して他人事ではないと思って」

 1杯の水を分け合って命を繋いだという親子の話、至る所に残る津波と地震の生々しい爪痕、直接見聞きしたその1つひとつが胸に迫ったのだと潤んだ目を拭う。「私も何かしたい」と心に決めて三浦へ戻るも忙しい日常に追われ、その「何か」を見出せずもどかしさを抱えていたとき、15年間生活をともにした愛犬の最期を看取った。そこで頭をよぎったのは「大型犬を介護した経験が活かせるのでは」ということと、「いまやらねば、いつできる」との思い。すぐにインターネットで、犬や猫の保護団体を検索。14年6月、福島県にあるNPO法人「SORAアニマルシェルター」への支援を名乗り出て以降、今日まで定期的に足を運んでいる。

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 シェルターの1日は、午前8時30分の水の交換から始まる。餌やり、犬舎の掃除・洗濯、ドッグランやブラッシングによるスキンシップの時間、散歩、冬場になれば雪かきも大切な作業の1つ。「体力勝負だから湿布薬は毎回欠かせないのよ」と冗談めかして笑ってみせた。活動を終えると身体はクタクタ。それでも足が向くのは、東北で頑張っている人たちがいるから。どんな境遇でも懸命に生きようとする動物たちがいるから、ほかならない。

 シェルターには、東京電力福島第一原子力発電所事故直後、緊急避難によって飼い主とはぐれてしまったり、震災が起因してこれ以上の飼育困難と判断された保護犬や猫たちが暮らす。

 そのなかで、とくに思い出に残っている1匹の犬がいる。名前は、かずお。飯舘村で保護された、人が好きな懐っこい性格の”おじいちゃん犬”だった。衰えが色濃く見えてきたこともあって、「福島の冬の寒さは体にこたえるだろうから」と自宅で三カ月ほど預かった。三浦海岸を散歩したり、一緒にくつろいだり。「せめて亡くなる前だけでも温かな家庭での時間をあげたくて」

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 「こんなにいるんだ」。想像を超える頭数に驚きながらも、ボランティアとして関わり始めて今年で丸4年。その間にも、もとの飼い主や新しい里親が見つかったり、天寿を全うしたりとその数は徐々に減りつつある。しかし、その陰には動物の高齢化が顕著となり、この先も継続した支援が必要なのも現状だ。「忘れないことは、現地へ足を運び、行動で繋がるということ」と持論を語る蛭田さん。これからも細く長い支援で東北と三浦を結び続ける。

惨禍の記憶を訓戒に 池田尚弘さん

 池田さんが被災地に足を踏み入れたのは、発生から約二カ月が経った2011年5月のこと。繰り返し報道される悲惨な状況をテレビで見て、いてもたってもいられなかった。各地で多くの犠牲者が出たことから、一時は花を届けようと考えたが、自治体へ連絡を取るも現場は混乱の最中。取り合ってはもらえなかった。

 ならば状況だけでも確かめようと車を走らせ、茨城県から岩手県陸前高田市までの海岸線をくまなく見て回った。目の前にあるはずの道はなく、あるはずのない船が建物の屋上に座礁する異様な光景が広がっていたと振り返る。「それは散々なもの。声に表せられなかった」。鮮明に焼き付いた景色を語る声が強張った。

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 被災地では、災害ボランティアとして民家の泥出しやがれきの除去、手仕事の提供、趣味の日曜大工を活かした仮設住宅の住環境改善などに力を入れた。寒さ対策を施したり、「窓に網戸がなくて虫に困っている」と言われれば、車に網と道具を積んで向かったり。月2〜3回往復するうち、ボランティア仲間や被災住民らと顔見知りになり、「『次はいつ来るの?』なんてフェイスブックを通して連絡が入るんですよ」と頼られることへの喜びを噛みしめる。

 それもそのはず、実は過去に負傷した膝の怪我の経過が芳しくなく、医者からは被災地入りを諦めるようにと随分諭された。「向こうには打ちひしがれて何もできない人もいる。比べて私は動けますから、多少の意地もあったけれど」。半ば強引に押し切る形で始めたボランティア活動だっただけに、役立つことで存在意義を認識できた。

 12年からは活動の軸を福島県に置いた。そこは東京電力福島第一原子力発電所から20Km圏内の双葉郡浪江町の「希望の牧場」だ。代表を務める知人は被ばくした牛、約300頭の世話を続けており、その手伝いを買って出た。行政からは市場出荷も繁殖もできないことを理由に全頭殺処分を求められた牛だが、「殺してしまえば、事故はなかったことになる」との危機感を募らせる。今、経済価値がなくとも、生きた証が未来の財産となる日が来る―そんな思いに共鳴したのだと声を詰まらせた。

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 今、もう1つ心血を注ぐのは、防災・減災意識の向上のための活動だ。昨年10月、三浦市ボランティア協議会研修会でこれまでの体験談を話す機会に恵まれたが、行政や地域の備えの甘さは痛切に感じているという。

 「『忘れない。絆。つながり』。よく耳にするが、多くが美辞麗句ばかり。本当の意味で忘れないということは、歴史を繰り返さないということ。同じ轍を平気で踏むのは、忘れるも同然」。起こってしまった悲劇をただ嘆くのではなく、三浦で教訓をどう活かすかが肝要。ときに一石を投じることも、支援の1つの形だと頷いた。
 

 

昨年10月、防災講演をする池田さん

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