【2003年】ITからまさかの「お惣菜屋」 有限会社スダックス誕生秘話/須田 仁之

<サマリー>

・2002年10月COOL事業を楽天に売却後、友人(社長のKくん)が「もうITはいいわ」

・「もっと実業やろうよ。飲食儲かるらしいぜ」と安易なノリ

・「共働きの時代が来る。弁当の時代が来る」というマクロ予測

・「とりあえず会社作ろうぜ。社名はスダックスでいいじゃん」でアエリア会長、社長と3人で100万ずつ出し合って、2ヶ月後有限会社スダックス設立

・「ロードサイドの弁当屋」を目指し、出店先探し

・ラーメン屋、弁当屋のバイトを始めて、オペレーションを学ぶ

・千葉県市原市五井に一号店「好き味や」を出店(2003年6月)

・全く知らない土地(市原市)のアパート(4万円)に一人暮らしはじめる

・よく分からず、初期投資3,000万ぐらい使ってしまう

・店長として割烹着を着てレジ担当。毎日▲5万円前後の赤字がつづく

・「飲食より株のほうが儲かるかも」と言われ、午前中は株のデイトレード、午後に店番をやるようになる

・初めての信用口座を開設し、株の方でも大損をこく

・「人生、終わった」と思いかける。自律神経失調症みたいになる

・5ヶ月後の2003年11月に「好き味や」閉店となる

==========

僕は26歳だった。

僕は当時ソフトバンクグループの衛星放送事業(現スカパー)を立ち上げる会社員をやっていた。その会社員と並行して、新卒で入社したイマジニア同期の友人が起こした会社の手伝いもしていた。コミュニケーションオンライン(COOL社)という名前で、ファウンダー2名で有限会社でスタート。当時株式会社にするには役員が3人必要ということで、「ちょっとハンコ持ってきて」って言われてトモダチノリで取締役になっていた。江東区亀有の月6万円ぐらいのアパートで創業し、たまに呼ばれて仕事の後に夜にオフィスに立ち寄ったりしていた。

株式会社にした理由は「資金調達をする」ということらしく、その資料作成を手伝うことになった。当時、「資金調達」の意味はサッパリわからなかったし、ベンチャーキャピタル(VC)という存在も全く知らなかったのだけど、スカパーの経営企画室で会社員をしていて、さんざんエクセルやパワポをいじっていたので、その流れでそれっぽい資料を作ることが出来た。

僕の「それっぽい資料」をもって社長と一緒にベンチャーキャピタルを回ることになった。3社ほど回ってみて「いちばん有名なところがいいね」ってことで、最初のラウンドで大手のJAFCOさんからの出資が決まった。

その半年後ぐらいには、追加の資金調達も決まって、10社ほどのVCからの出資を受けた。僕は本業のソフトバンク子会社での会社員の方がクソ忙しくなってきて、COOL社への関与が薄くなっていった。

==============

資金は5億ほど集めていたかと思う。社員数もいつの間にか増えて30名ぐらいになっていた。外部取締役として忘年会などにだけは呼ばれるんだけど、すっかり知らない人ばかりになっていた。「会社がいい感じになってるので、COOL社に本格的にジョインしてくれ」と言われたので、早速、ソフトバンク社で辞表を出した。

辞表はすんなりと受け入れられなかった。当時、スカパーとは別で、ソフトバンクと光通信のジョイントベンチャーを立ち上げるってことで、初期メンバーとして5人足らずの子会社で日々死にそうになるほど働いていた。

40代半ばの元野村證券のボス(社長)から「なぜ、お前はこんなタイミングで辞めようとするのか?自分のやろうとしていることが分かっているのか?」と密室で問い詰められた。27歳の若輩者の僕は「少人数で仕事がキツすぎるし…。あと友人の会社を助けたいので...」などと下を向きながらモジモジと戯言を呟いていたら、「これは俺が持ち帰る」といったん保留された。

すぐに人数を補充するべく、僕の部下が採用された。給料も翌月から急に昇給された。僕の直属上司がCOOL社に「引き抜くんじゃねーぞ、ゴラ」って会社に乗り込んでいった。多くの「大人プレイ」によって僕の退職は却下となった。

そして社長からは「俺はお前のニーズに答えてやった、ゆえに、お前は辞めることは出来ない。お前が卒業できるとしたら、せめて会社が上場出来たら、だな」とメールが送られ、僕の退職問題は一旦収束した。

==============

ソフトバンク子会社での辞表すったもんだから2年が経った。5名ほどだった社員は100名ほどになり、僕は経営企画担当として29歳で部長職ぐらいになり、上場準備も担当して、無事上場した。

ちょうどそんなタイミングでCOOL社より、「会社の経営が本格的にヤバイので来てくれよ」と依頼があった。

ソフトバンク子会社では初期メンバーってことで会社の中では偉い方ではあったけど、所詮、上司の無茶振りを如何に実現するかの「社畜マシーン」だったので、友人が経営する会社であれば「もっと自由で、オモシロイかもなー」などと軽く妄想し、ふたたび辞表を出すことにした。

僕は元野村證券のボスから2年前に受信した

「お前が、卒業できるとしたら、 それは、 せめて会社が上場出来たら、だぞ。分かるな」

という完全にマウントポジションをとられたメールをずっと2年間「保存フォルダ」に保存していた。その最後通牒的なメールに

「おっしゃるとおり、このたびは無事に上場しましたので、そろそろ卒業させて頂きたいと思います」

と返信して、しっかりと「ロジック負け」しないようにして何とか辞めることが出来た。

============

創業から上場までいたソフトバンク子会社を辞めて、正式に友人の会社にジョインした。29歳の夏だった。通勤先はソフトバンク本社のあった日本橋箱崎の20階建てオフィスビルから、赤坂見附の繁華街にある「足つぼマッサージ」って大きな看板のある5階建ての「よりボロい雑居ビル」に変わった。

社員数は30人ほどだった。役員や幹部はイマジニアの同期で構成されていたので知り合いだったけど、その他多くの現場の人達とはほぼ面識がなかった。

入社早々に株主総会があった。人生で初めての株主総会だった。

そもそもどんな会議だか良くわからなかった。

赤坂にある20席ほどの貸会議室みたいなところで行われた。

僕ら役員陣が前に座って、スクール形式で並べられた椅子に株主の方々が座っていた。

出席者は15名ほどだったろうか。多くはVC(ベンチャーキャピタル)の方で、僕が知っているのはJAFCOの方だけだった。僕が3年前に資金調達でプレゼンした時にお会いした方で、いつもとても気さくでニコニコされている印象だったが、その日は終始厳しい表情をされていて、隣りにいた上司の方はもっと厳しい顔をしていた。

僕は良く分からないまま、「初めまして」みたいな顔をしながら、前にちょこんと座ってオブザーバみたいな感じだった。

内容は前期の決算を報告しているようだった。1億だか2億だか忘れたけど、大きな赤字でずっと赤字ですみたいな報告だった。

社長からつらつらと報告した後、株主さんからの質問タイムになった。

出席している株主さんはみな厳しい表情をしており、冷たい視線がこちらに向けられた。

「何でこんな冷たい視線なんだ?ん、、、何なんだ、この会議は?」

って思った。

「何か、ちょっとヤバイところに来ちゃったかもしれない。。。」

株主さんが次々と挙手をして質問してきた。

何個か質問があり、どれも何か責め立てるようなものだった気がする。その中でも明確に一つ覚えているのが、

「社長。御社はずっと赤字ですよね?計画では来期1億の利益が出るって言ってますけど、ホントに出るんですかこれ?ウソじゃないよね?利益出なかったら、経営陣は辞めるんですよね?」

どなたがおっしゃったか忘れたけど、僕ら20代の若造よりはるかに年上の方だった。

その質問に対して、

「はい、そんときは辞めますよ!!」

みたいな回答だった。(実際の言い方はもっと丁寧だったと思うけど、自分の記憶にはこのように刻まれている)

「何なんだこの会議は。。。子どものケンカみたいなことになってるぞ。。。」

僕はこれまでの背景が全然分からなかったので、何が起きてるのか良く分からなかったけど、とにかく「トラブってるな」ってことは分かった。

============

早急に会社を売却する方向で動くことになった。

入社後の最初の仕事が「会社の売却」になった。僕はこれまでの背景が分からなかったのでその意思決定の議論するうんぬん以前に、とにかくクロージングさせる「実行部隊」として動くことになった。

2002年当時、ITベンチャー企業の買収が出来る会社はヤフーと楽天の2社ぐらいしかなかった。ちょうど、楽天がインフォシークを買収したりして積極的だった。中目黒駅から徒歩10分ぐらいかかる楽天本社に通う日々。真夏のクソ暑い中、スーツ着て中目黒駅からK社長と二人で「あ〜、遠いわ〜、辛いわー」と汗を垂らしながら「楽天詣で」として日参していたのを思い出す。

中目黒なんてオシャレな街には人生で来たことが無かった。社会人になってから職場と自宅の往復な人生だったし、ほとんど内勤だったので仕事で外出することもほとんど無かった。

初めて中目黒の駅を降りて駅前の風景を目にした時「あ、一度だけここ来たことあるわ」と思った。ちょうど半年ぐらい前に、大学時代の悪友の「小野」と中目黒の居酒屋で飲んだことがあった。僕がソフトバンクの子会社をもう辞めようと思っていたころだった。

大学時代の悪友「小野」は、大学留年して新卒でアクセンチュアに入って、その後起業して会社を楽天に売却して、楽天の社長室みたいなところで働いているようだった。

中目黒の居酒屋で、

「すだっち、楽天こない?ミッキーの下で働きなよ。孫さんの次はミッキーでいいじゃん」

「え?今更、友達の会社手伝うの?COOL社?あそこはヤバイっしょ、辞めたほうがいいよ」

なんてことを言われた。

そんな想い出の居酒屋を通り過ぎて、まさか、居酒屋で会話されていたその楽天本社に日参し続ける日が来るとは思いもしなかった。しかも、その話題に出ていたCOOL社を売却するというM&Aの案件で。

============

企業売却のスキームはとても複雑だった。

会社のすべてを売却するのではなく、メインのコミュニティ事業(COOL)のみを売却し、人員は数名だけついていくというもので、「会社分割」をするものだった。しかも、現金ではなく「株式交換」で売却するということで、会社分割と株式交換を同時に行うという、今考えるとその後誰もやってないだろあれ、というスキームだった。

そんな実務は全くやったことがないので、本屋にいって、「会社分割」と「株式交換M&A」とか書いてある本を5冊ぐらい買ってもらった。また弊社の顧問弁護士は「街の弁護士」みたいなところに安く頼んでいて、企業法務に精通している感じではなかったので全然頼れなかった。

公告やら債権者通知やら、やるべき実務やスケジュールが決まっていて、株主さんへの相談やら書類作成やらエクセルでスケジュール表を作ったらタスクの列が300個ぐらいになってこれを1ヶ月ぐらいでやらなければならなかった。そもそも売値の合意交渉もしなければならず、株主もVCさんが10社ぐらい入っていたので、各社との調整も動かなればならなかった。また、そもそも売って終わりじゃなくて、会社分割での新会社スタートの準備もあるしね。(社名変更とかもろもろ変更タスクも多く。。)楽天さんは上場企業だったため、IR部門とも開示情報でのやりとりが必要だったし、サーバー移管とかで技術部門とも事前調整が必要だったし、従業員のストックオプション放棄とかもあったし。。。

企業買収は大抵社内には秘密裏に進めるものだ。40人ぐらいの会社の規模で、事前に知っているのは役員と担当部門含めて5,6人だった。楽天さんがリリースする日、株式市場が引けた15時以降に社内で説明することになった。

僕はまだ会社にフルコミットで入って2ヶ月ほど。社内飲み会などもなくて、経営会議のメンバー以外とはほとんど喋ったこともないような中、いきなり社員の前で概要を説明する役目を受けた。昔からの友人ってことで前から役員に入ってた男が、入社早々に「あなた達の会社を楽天に売却することになりました」などと言うのである。僕が現場社員だったら「何を言い出すんだ、この童顔新米役員野郎は!」と思っただろう。

対外的にリリースされた後は、周辺各社への説明や社内整理などに追われたが、大きなトラブルもなく、無事合意クローズされた。

===============

会社分割と株式交換による事業売却がクローズした頃は11月に入って、季節はもうすっかり秋になっていた。打ち上げ的な感じで赤坂見附の安い居酒屋で役員3人で飲みに行った。

今考えると怒涛の2ヶ月だった気がするけど、前職でのソフトバンクグループはそれ以上に怒涛だったので、特に疲労感や達成感もなかった。それ以上に「これから新会社含めどうするか」というところが目下の議題だった。

新会社にはまだVCさんが10社入っており、次のステップとして自社株買いでVCさんたちの株を買い取ることが決まっていた。会社に多少の運転資金を残しただけで、残った現金のほとんどを使ってVCさんの株を買い取るのだ。コミュニティ事業を切り離して売却した後に残った会社は、いわゆるweb開発受託会社でエンジニア中心の正社員20名ほどの会社だった。

安い居酒屋で友人であるK社長は、下戸なのであまりお酒を飲まない中、真剣なのか冗談なのか分からないような口調で雑談した。

「もうITはいいわ。ITってお金必要ないじゃん。お金のレバレッジ効かないじゃん。お金調達しても結局使っちゃっただけじゃん」

「なんかもっとリアルなビジネスやろうぜ」

「例えば、飲食店とかさ。最近株式マーケットをみてると、ほかほか弁当(現ほっともっと)とか伸びてるんだよな」

「飲食店とかってさ、優秀なやついなさそうじゃん。俺たちがやったらいけるんじゃないか?」

社長のKさんは僕が新卒で入社したイマジニアの同期で、一番優秀だと思った同期であり、帰りの電車がいつも一緒で会社帰りにいつもいろいろ教えてもらっていた。海外のインターネット事情に精通していて、いつも英語のニュースサイトを読んでいて、「こんなインターネットに詳しい人が同年代にいるんだなー。早稲田にはこんな奴いなかったなー」などと思ったものであった。

自分よりどう考えても優秀だなと思っていたし、自分の見えないものを知っている感じがしたので、僕は「まあ、優秀なやつの言うことを聞いといたほうがいっか」みたいな感覚だった。なので、楽天への会社売却も「彼が言うならやるしかねっか」という感じだし、今回のこの「飲食店がいいんじゃね?」的なノリも同じように「まあそうなのかもな」と思った。

新会社のweb開発会社の方ではまだ株主がいて自社株買いをしなければならないので、その会社で飲食業をやるわけにはいかず、別途会社を作ってチャレンジしようということになった。

当時の最低資本金は300万だったので、一人100万ずつだして300万で有限会社を作ろうということになった。

web開発会社の方の新社名は「ラテン語で空気」という意味のアエリアになった。N会長のお気に入りであり命名者でもある。K社長は「N会長のモチベーションが重要だからその名前でいこう」という感じだった。

飲食店を展開するはずの有限会社の方は、アエリアがN会長&K社長のダブル代表取締役だったので、有限会社の代表はスダがやってくれ、みたいな話になった。「社名どうする?」って僕が聞くと、「スダックスでいいんじゃね?」ってことだった。ラテン語でも日本語でもなかった。

赤坂見附の安い居酒屋で、その会社設立的な経営会議が終わり、翌日から有限会社スダックスを設立するということで、また会社設立の本を読みながら設立登記を進めることになった。

===============

飲食店といえば、大学時代のアルバイト以来、8年ぶりぐらいだ。1990年代の大学生の頃に今はなき「森永LOVE」(北千住店)という森永グループが展開していたファーストフード店で3年間働いたことがある。マクドナルド池袋西口公園前店でも3ヶ月ぐらい働いたことがあるし、ファミレスの「COCOS」牛久店でウエイターも3ヶ月ぐらいやったことがある。ただバイトの経験はあるというだけだけど。。。

とりあえず、「飲食店経営」という雑誌を買って、「どんな業態をやろうか」みたいなブレストになった。株式マーケットではホッカホッカ弁当のプレナスがいいらしい。共働きがスタンダードになり、雑誌にも弁当のニーズが増えるみたいなことが書いてあった。「外食」ではなく「中食」と呼ばれ、「中食ブームきたる」みたいな記事も見かけた。「オリジン弁当」という新たな業態が出来はじめて、いろんなお惣菜を「量り売り」するサービスも出てきた。「健康志向」みたいなワードも出てきて、ブルーカラーが求める「がっつり唐揚げ弁当」みたいなものではなく、より健康的なものも求められるみたいなことも仮説思考で出てきた。

居酒屋業態では、和民、白木屋、養老乃瀧みたいな分かりやすい赤白ロゴの「チェーン居酒屋」に対抗して、少し和風テイストで落ち着いた内装の「東方見聞録」や「金の蔵」みたいな業態が流行り始めていた。2002年の12月である。

マクロで見ると「中食の時代」が来る。そして飲食店の歴史で見ると、コンビニ的な明るい店内・分かりやすいロゴデザインに消費者は飽き始めており、雰囲気のある内装やデザインを嗜好するようになってきた。都心でまだ5店舗ほどの展開だったオリジン弁当はまさにコンビニ的なデザインで展開していた。

「雰囲気のある内装でオリジン業態展開したらいけるんじゃね?」とKくんが言い出した。僕も「そうかもな」と思った。

数日後、Kくんから「まさにこの業態で成功してる店舗があるっぽいよ。1店舗で月商2,000万とか行ってるみたい。見に行こうぜ」と言われ、Kくんの中古国産車にのって、静岡県の沼津市にある和風テイストのお惣菜屋さんの視察にいった。高速で都内から3時間ほどの場所だったろうか。

夕方5時ぐらいで確かに客はごった返していた。沼津市というところは初めて訪れたけど、駅からも離れた場所にあって、ロードサイド型のお惣菜屋さんみたいな感じだった。10台分くらいの駐車場があって、みんな車で買いにきていた。

僕らはコロッケだの唐揚げだの量り売りの惣菜だのを一人2,000円分ぐらい買って、車の中で試食した。「うん、旨いなこれ」みたいな会話をした。帰りの高速で「この店を丸パクリすればいけるなこれ」みたいな会話になった。

==============

「沼津の和風惣菜屋を丸パクリする」という方向性が固まった。先行しているオリジン弁当は都心のビジネスマンをターゲットにしていて、都心ビルイン型店舗で展開する方向だった。さすがに先行しているオリジンのマーケットに直接ぶつけて戦うのは厳しいと思ったので、僕らはオリジンとは別ルートで攻めようってことになった。都心ではなく、郊外型のロードサイドから攻める。まさに沼津のベンチマーク店が同じだったので、そのシナリオでいこうと。

一方で抜けている視点があった。既に聡明な方ならお気づきだと思うけど、僕らは「飲食店のド素人」なのである。オリジン弁当は元々は飲食業をやっていた会社の新業態だった。すなわち経験者である。「経験」を仕入れなければならない。

当時の事業立上げ準備といったら、素人過ぎて分からないことが多すぎたので、とにかく情報をググりまくって調べて、何かヒットしたらアタックして会いに行くということをやっていた。成功飲食店のインタビュー記事などを貪るように読んで、面白そうな人がいたらアポをとって会いに行った。「経験者と組む」というのが次のクリアすべきプロセスだった。

そんな中、2人のプロと仲良くなった。一人はウエキさんという方で年は50歳ぐらい、当時繁盛飲食店のプロデュースをしており、「飲食店の成功請負人」ということでテレビや雑誌などのメディアにも多く出ていた。僕とKくんがアポを取って、渋谷の雑居ビルにある会社を訪問して、僕がざっと作った事業計画書を見せた。

ウエキさんは最初怪訝な表情で僕らを見定めるような目つきをしていたが、僕がプレゼンしていくと徐々に表情がほころびはじめて「ほほー、君たちIT業界から来たんか〜。オモシロイ若者だちだなー」とつぶやいた。僕らはまだ20代後半だったので、20歳ほど年上のニコニコとした「いいおじさん」な印象だった。その後、僕らはことあるごとにウエキさんの会社に行って相談した。

「それにしても、飲食のド素人がいきなりお惣菜屋かー。お惣菜ってのは飲食業界の中でも、一番オペレーションが難しいんだよ。うーん、うーん、ちょっと難しいかもなー」

「まずは成功しやすい業態で経験を積むのがいいかもしれない。最近は僕はラーメン店舗で成功させている。ラーメンならスープと麺だけで勝負できるよ」

業界のプロとしてもとても真っ当な意見だった。

============

もう一人のプロはイチカワさんという女性だった。僕らと同年代の20代後半で、フリーランスで「フードビジネスコーディネーター」という仕事をしていた。慶応SFCを卒業してて、大手企業に勤めたけど退職して「ヤリタイコト」で起業したというタイプだった。女性なのにとてもバイタリティがあってまさにベンチャー気質な感じで、僕らにも共感した様子で「ぜひ、一緒にやりたい」ということだった。

素人の僕らとしても渡りに船だった。起業されているので「プロジェクトを成功させる」というベクトルは僕らと同じだ。彼女自身もフリーランスになってまだ1年足らずということで、このプロジェクトを成功させれば彼女自身のキャリアステップにもなるだろう。

女性的な観点からも「健康志向なお惣菜屋」というコンセプトもまさに共感ポイントが高く、店舗の内装やコンセプト設計、メニュー作りなど根幹部分のコンサルという方向で付き合って頂く方向になった。

============

いろいろプロの真っ当な意見を聞きつつも、まだ我々素人には「判断軸」が無かったので、ラーメンとお惣菜の両バリで検討していこうということになった。ウエキさんは「君たち素人はまずはラーメンからはじめるべき」とのことだった。

「僕が手伝ったお店で修行してみるかい?池袋の「えるびす」っていうお店があるから。とりあえず紹介しておくから、会いに行ってみなよ。

僕らは池袋の雑居ビルを訪問しにいった。社長のデスクと打ち合わせ用の小さなテーブルが1つだけある小さな事務所だった。僕は前職のソフトバンクサラリーマン時代は経営企画部門で内勤が多く、会社訪問するとしても取引先のスカパーか代理店の光通信ぐらいしか無かったので、渋谷のウエキさんの事務所や池袋ラーメン屋えるびすの事務所などの「雑居ビル」に訪問するのは初めての経験で、「雑居ビルへの訪問なんて、テレ東のテリー伊藤の番組みたいだぜ」って気分でとても新鮮だった。

大勝軒創業者の山岸さんを一回り若くしたような、お腹がでっぷりとした、いかにも「ラーメン店のオーナーです」というマスダさんという社長が出てきた。

ウエキさん同様、最初は怪訝そうな表情で僕らを見つめていた。話をするうちに「こいつら悪い奴らじゃないな」って判断したようで、「うちで修行してってもいいよ。来週からお店に来なよ」と言われた。

赤坂見附のアエリア社のCFOとしての仕事もあったので、週末含めて、週3は池袋のえるびすに行くようになった。アエリアは10時以降にゆるゆると出社する会社だったけど、ラーメン屋の朝はとても早くて8時出社だった。

「初めまして、スダといいます。よろしくお願いします」

若い店長さんに挨拶をした。20代中盤ぐらいで、僕の3つほど年下だったかと思う。ラーメン店では3年ほど働いている感じだった。

紺色の割烹着に着替え、同じ色の頭巾をかぶり、ヒザ下まである長靴に履き替えた。これがラーメン店バイトの正装だ。長靴を履いたのは小学生以来な気がする。

新米の下っ端の仕事は店頭の掃除から始まった。朝からお店の前を掃き掃除する。店の前は出勤前のサラリーマンが通り過ぎる。みなスーツを着ている。僕は紺の割烹着を来て、長靴を履いて、ホウキとちりとりをもっている。他の人達はスーツにネクタイ、革靴を「カポカポ」と音を立てて颯爽と駅に向かっている。

僕もスーツを着ていたビジネスマン風な人種だったけど、今は朝からうつむき加減に「掃き掃除をする男」になってしもうた。11月を過ぎて季節はすっかり秋めいていて、朝はとても肌寒かった。スーツマンから長靴男になってしまった。

秋の木枯らしの寒さを感じながら、「もう引き返せないところに転げ落ちた」ような錯覚に陥った。

ただ、哀愁に浸る余裕はなく、もうサイは投げられており、とにかく計画を実行すべく、素人感覚を脱却しなくてはならない。

店頭と店内の掃除が終わると、次の下っ端の雑用はダシに使う鰹節やらアゴだしやら、とにかく乾燥した魚をクルミ割り器みたいなものでひたすら砕くという作業だった。毎日毎日バケツ1杯分を無心にバキバキと割る作業だ。毎日バキバキ割った。とにかく乾燥した魚をバキバキと割った。1時間ほど作業をすると10時になり、11時開店の準備となる。

お店はカウンター15席ほどの小さなお店で、スタッフは3人で回す感じだった。下っ端の僕は主に洗い場を担当し、とにかくひたすらラーメンのどんぶりを洗う日々だった。当時、29歳だったので20代最後の僕のビジネスが「皿洗い」になった。ついこないだまで、ブロードバンドビジネスだ、株式上場だなどとやっていたのに。

スタッフはみんなアルバイトで店長以外は二十歳前後のフリーターだか大学生だった。みなバイト歴も長く、洗い場などはとっくに卒業していて、麺を茹でたり、メンマをトッピングしてたり「上流工程」を任されている感じだった。僕は下っ端だったので、一周り下のハタチ前後のフリーターらしき人に「おい、このどんぶり、まだちょっと汚れんじゃねーかよ、洗い直せよ」などと叱責を受けた。

============

ラーメン店でのインターンと並行して、店舗物件を探す旅をしなければならなかった。関東近郊の「ロードサイド店」というコンセプトは固まっていたので、茨城県牛久市出身の僕と千葉県流山出身のKくんの議論では「国道6号沿いとか国道16号沿いみたいなとこがいいかもね」などとざっくりとしたイメージをしていて、イメージに合ったロケーションな埼玉や千葉での物件探しが始まった。

ネットで地場の不動産屋を検索して、よさげな店舗があったら見に行った。なるべく駅から離れた方がいいってことで、Kくんのオンボロ中古車で店舗探しの旅に出かける日々になった。いっちょまえに各市の人口データなども参照し、また、競合店舗のほっともっとの店舗所在地データも全部引っ張ってきた。候補物件リストは200ほどあり、実際に視察したのはその半分ぐらいだったろうか。(のちに、こんな市場分析っぽいことは全く意味が無いことになるのは知る由もない)

埼玉県さいたま市、岩槻市、狭山市、上尾市、川越市、越谷市、桶川市、加須市、入間市、飯能市、所沢市、坂戸市、草加市。

千葉県成田市、松戸市、佐倉市、市原市、四街道市、習志野市、八千代市。

いずれの場所も個人的には全く行ったことのない地域だった。全くの地の利のない住所データを眺め、Googleマップとストリートビューで確認しては、現地に視察しに行くという日々が続いた。

また人生で初めて「地場の不動産屋さん」という人たちとも会話をするようになった。田舎に住んでいたときの近所のおっちゃんみたいな人が多く、IT業界とは真逆な人種で、駅前に事務所を構えて座ってるだけで仕事になるんだなと思った。

そんな中、千葉県市原市にあるツインズという小さな不動産屋さんのオバちゃんたちが親切な感じがした。100店舗ぐらいみてたので、「もうそろそろ決めねーとな」みたいな雰囲気も僕達にはあったのだと思う。気さくで親切そうなオバちゃんに賭けてみようみたいな気持ちもあった。ツインズさん経由で10店舗ほど視察して一番いい物件に決めた。

千葉県市原市で最寄り駅は内房線の五井駅だが、その店舗の場所は駅から離れており、駅から海岸方面に3kmほどいったところでほぼ工業地帯だった。目の前に「アピタ」という駐車場100台以上止まれそうなスーパーがあった。その店舗は以前はローソンだったみたいだが、潰れてしまったようだ。

僕らは夕方頃に店舗に視察して、交通量を調べた。競合分析がてらアピタで買った惣菜を頬張りながら、車の中で夕方に通る車をカウントしていった。

「まあまあ、車通るなここ。いいかもな」

車の中で2時間ぐらい張り込んで、当時はそれなりに真剣だったけど、今考えると茶番劇なような調査だ。

============

物件は決めたので、あとは内装外装の工事や借入などの資金調達、メニューの作成等を早急に進めなければならない。

素人の僕らとしてはプロのウエキさんに乗っかるしかなかったので、ウエキさんに内外装の見積もりを依頼した。ウエキさんはまだやはり「惣菜屋は難しいので、まずはラーメン屋で小さな成功をしなさい」というスタンスだった。

内外装の見積もりが結構な金額だった。2,000万だか3,000万だか忘れたけど、結構な金額だった。Kくんと一緒に事務所に行って見積もりについての話を聞いた。先方は真摯に「これぐらいかかるもんだよ」みたいなトークをしたけど、既にKくんはキレていて、「怪しいな。もう切ろうぜ。ほかの業者あたってみよう」ってことになり、またゼロから業者選定をすることになった。

2ヶ月に渡るラーメン屋の修行も撤収し、やっぱり「惣菜屋で行こう」ってことになった。ピボットだ。僕は前職でも振り回されることには慣れていたので、急ハンドルを切ってまた違う方向にフルスロットルでアクセルを踏むことになった。

「惣菜屋」のオペレーションが全く分からなかったので、バイト求人雑誌を買って、北千住にあるチェーン系惣菜屋でバイトをすることにした。平行して内外装工事の準備も進めていて、オープンまであと2ヶ月ぐらいに迫っていた。そこのチェーン店はほとんどがセントラルキッチンで作られてたやつを温めてただけなので、僕らの手作り惣菜屋と比べると全然楽なはずだけど、それでもキッチンで弁当やら惣菜を作るのはとても大変だった。

=============

工事業者も何社かから見積もりをとって、それなりっぽいところに発注し、着々と出店準備が進んだ。足立区綾瀬6万円のアパートを引き払い、北千住でやっていたバイトも1ヶ月足らずでフェードアウトし、千葉県市原市に月4万円のアパートを借りてそこに引っ越した。

事業計画をつくって金融公庫みたいなところから3,000万ほど借りた。地元のフリーペーパーに求人を出して、料理長を探すことになった。そう、まだ素人の文系若者がエクセルでメニュー案とかを考えてる程度で、そもそも「それ作れるの?」っていう、ITでいうとエンジニアがいないくせにいっちょ前にパワポを作っているスタートアップ状態だった。

「何かちょうどいい人材から応募来たな。俺たちもってるかもな」なんて、自分の都合のいいように勘違いしたものである。無料の求人で料理人経験者からの応募があった。年は50代後半ぐらいだったろうか。ラーメン屋えるびすのオーナーさんよりもぷっくりと太っていて、昔の笑点の大喜利司会者の三波伸介さんみたいな人だった。

「僕はずっと日本料理とか料理人ばっかりやってましたけど、今回のスダさんたちのプランに残りの人生を賭けたいと思います。死ぬ気でやります!」

とても熱い人だった。スタートアップ向きである。タカギさんという方だった。

小さいながら陣営が整いはじめた。実質ビジネスオーナーのKくん、COO的な僕に、料理責任者のタカギさん、フードコンサルのイチカワさん。4人で市原市の喫茶店等で店舗デザインや什器の仕入、メニュー設計などを詰めていく日々だった。

特に厨房の作り方やメニューについては、料理人のタカギさんとコンサルのイチカワさんが意見がぶつかるシーンが多くなっていった。明らかにお互いを忌み嫌いはじめた。

「あんな若い女に何が分かるんだ、何もやったことないだろう!」

「あのオジサンのセンスじゃ、絶対に流行りのお店は作れないですよ!」

まだオープンもしていないお店で、こんな小さい組織でも間に挟まれることになった。

両方の言うことはそれぞれが正しくて最もだった気がする。

ただ、コンサルのイチカワさんは週1ミーティングの契約で、タカギさんはフルコミット社員だったので、タカギさんを優遇せざるを得なかった。イチカワさんとはオープンに漕ぎ着けるところまでの契約で打ち切ることになった。

=============

お店と僕の4万円アパートは目と鼻の先にあるんだけど、千葉県市原市のJR五井駅から徒歩30分ぐらいかかる場所で、移動には「車」が必要だった。僕は足立区綾瀬で一人暮らしを始める前、牛久の実家の頃は中古の4WD三菱サーフに乗っていた。

ソフトバンク時代の先輩から「八郎くん、やっぱモテるオトコは四駆だよ。しかもオートマじゃなくてマニュアル。ソフトバンクテクノロジー株で儲かったので新車に買い換えるから、四駆売ってやるよ」って言われて、半ば強引に買わされた代物だ。

僕はソフトバンク入社時に事情があって「山田八郎」という偽名を使っていて、先輩からは「八郎」「はっちゃん」などと呼ばれていた。

そんな俺の「八郎サーフ」は一人暮らしを始めてからは、牛久の実家の目の前の駐車場に眠っていた。足立区にもってくると駐車場代が月2万円ぐらいはかかってしまい、牛久なら3,000円ぐらいだったので放置していた。

長らく眠っていた八郎サーフを千葉県市原市で活用させる時がきた。

僕は実家のオヤジに電話をし、「今度千葉でお店をやることになったから、実家に置いてあるサーフ使うわ」と言ったら

「あ?あれかー。あれ駐車場代かかるから、売ったよ。全然乗ってないから〜もったいないから〜」

確かに半年ぐらいは放置していたのかもしれない。業者経由で海外に売り飛ばされてしまい「お前のサーフは今頃アフリカの大地を走っているぞ!」などとオヤジは得意気にしゃべっていた。BOOWYのCDが全部揃っている「BOOWYコンプリート」ってのが車中にあったはずなんだけど、それごと売っぱらわれていた。

「ああ、車がないとあの地で仕事にならん。。マズイ。。。」

オヤジに千葉で「惣菜屋」をやることを説明した。

IT業界で働いていたと聞いていた息子が、いきなり「惣菜屋」である。息子3人を育て、3男である僕はカネのかかる私立大学(早稲田)にも通わせて、マトモに生きているかと思ったら、そんなことを言い出す。

ただ、オヤジも同じDNAの持ち主であるので大して驚くこともなく、「息子の大勝負」に助け舟を出さなくてはと感じた模様だった。

数日後、オヤジから電話があった。

「車、手に入れたから、すぐ来い」

オヤジが「仕入れた」という車はご近所の酒屋さん「タマノ酒店」で配達用で使われていた車だった。

「安く譲ってくれるみたいだから」

長方形した薄緑カラーのバンで、スバルサンバーディアスワゴンクラッシックという車種だった。

どうぶつの森ポケットキャンプに出てくるようなバンだった。

モテるために買わされた四駆サーフが、20代の男性が乗ったら最もモテナイような「酒屋の配達バン」に変わってしまった。僕はこの「酒屋バン」で見知らぬ土地を疾走することになる。

=============

お惣菜 「好き味や」

「すきみや」と読む。

2003年5月にお店は無事オープンした。

事前にソフトバンク時代の先輩やらに知らせておいたので、店頭にはたくさんの開店祝いの花が飾られた。

千葉の片田舎のロードサイド店舗としては、きらびやかな華々しいデビューだった。

午前11時のオープンと同時に、物珍しさがあってお客さんがドンドン入ってきた。レジはあっという間に行列になった。量り売り対応の最新レジの操作も初めてだったので大変だった。唐揚げがすぐ売り切れてしまい、厨房に追加を出したりとか、とにかくてんやわんやだった。

僕は紺の割烹着を着て、「店長」としてレジや厨房や買い出しやら縦横無尽に一日中駆けずり回っていた。酒屋バンも初日から活躍し、途中で銀行に両替に行ったり、足りないものの買い出しにいったり、昼休みもなく、夜の8時まで動きっぱなしだった。

初日は物凄く繁盛した。一日中の立ち仕事で物凄く疲れた。

でもこれは一過性のイベントではなくて、「毎日」のオペレーションになるのだ。

「こりゃ、体力もつかなー」と不安になった。

そんな僕の不安は杞憂だった。

忙しいのは最初の1週間だけだった。

初日20万円ほどの売上だったが、日に日に10%ずつぐらい下がっていき、1週間後には日商7万円になった。1ヶ月後には5万円ぐらいになった。

初期のソフトバンクにならってか、当然のごとく僕はエクセルで日次決算をしていた。時間ごと売上、客単価、天候要素、曜日分析など、色んな角度から数値分析をしていた。メニューのカイゼンや途中で看板を大きくしたり、店内の照明を変えたりの、「追加投資」も試みた。

パートのお母さんたちともミーティングをして、アイデアを募り、お客さんからアンケートをとったり、街の太鼓サークルと仲良くなって、お店の前で和太鼓をやってもらうなどのイベントもやった。

何をやろうが焼け石に水で、日次の赤字額は▲5万円前後だった。何をしても売上が変わらないことが分かると、コスト削減することになり、パートの人たちのシフトを削り、なるべく僕と料理長のタカギさんでオペを回さなければならなくなった。

ホワイトカラー時代、何度も徹夜して働いていたので体力には自信があったけど、毎日の立ち仕事は予想以上に辛かった。閉店後に余ったお惣菜が食べ放題だったのだが、3ヶ月で8kgほど痩せた。

田舎の夜は本当に暗い。

20時過ぎに閉店業務をする時間帯はあたりも真っ暗で、うちの「好き味や」だけが薄明かりをともしていた。蛍光灯がこうこうとしているオリジン弁当の店内とは差別化するために、落ち着いた「和」の雰囲気を出そうと、柔らかい橙色の明かりをベースにした店内であったが、これがまた閉店間際の心の寂しさを助長することになるとは知る由もなかった。

レジを閉めレシートを印刷してそれをエクセルに入力すると、毎日毎日赤字だった。毎日、立ちっぱなしで働いても▲5万円。「これは東京で一日豪遊して飲み歩いているのと同じパフォーマンスだな、遊んでるのと一緒だな」と思った。

陰鬱とするものの、店長としては「接客業」なので、お店ではニコニコしていなければならなかった。数は少ないけれど常連のお客さんも来たりしていた。そこそこ綺麗なパートのお母さんには、オジサン土木作業員の人とかが常連になっていたけれども、僕のお得意さんはパートのお母さんたちの子供たちだった。

パートのお母さんたちは10人ぐらいいたけれど、皆さん、保育園か小学校低学年ぐらいのお子さんがいて、その子達が遊びに来るようになった。その子達が懐いてきて、夏休みに近くの公園で花火をしたりした。これがこの地でお惣菜屋を立ち上げての、僕の唯一のいい思い出だったかもしれない。

=============

僕は毎日日次決算のエクセルをつけて、実質オーナーであるKくんに報告していた。Kくんとはメールベースで議論し、改善点を抽出して、僕が実行に移した。新たに大きな看板を作ったり、店内の照明をもっと明るくしてみたり、チラシを撒いてみたり、値下げしてみたり。基本はリモートでやりとりしていたが、月に何回かは来てもらって打ち合わせをしていた。

僕は日に日にやつれ、目に覇気がなくなっているようだった。

一応、週に一日は休みだったが、店はすぐ近くなので、見に行ったりすることが多かった。千葉の僻地だし、JRの駅からも遠いし、地理的にも微妙なところだったので、友達が遊びに来ることもほとんどなかった。

あるとき、そんなやつれた僕を見てKくんは、

「スダポン本人が店舗に立つと疲弊しちゃうから、もっと現場はタカギさんたちに任せようよ。今、株式市場が結構熱いことになってるので、株のトレードとかも平行してやってみない?」

とアドバイスをした。

僕が現場を離れると、追加でパートさんの人件費がかさみ赤字が膨らむ一方だった。とは言え、Kくんについては知り合った頃から「賢いな」と思っていたので、基本、言う通りにした方がいいかとも思っていた。

厨房がメインの料理長だったタカギさんにレジ打ちも覚えてもらうようにした。タカギさんはとても前向きで「店舗が厳しいのは分かってるので、なんでもやりますよ」ととても前向きだった。メールも覚えたいということで、ノートパソコンを個人で購入して、僕らとのメールでのコミュニケーションも覚えたいということだった。ガラケーでもメールを使いこなせるようになっていた。

=============

オープンしてからほぼ休むことなく3ヶ月が経過し、売上が平行線で低迷する中、僕は午前中は家で株のトレードを行い、午後に店舗に出社するということになった。

株については、ちょうどネット証券が出はじめた頃で、前職のソフトバンクサラリーマン時代にマネックス証券とEトレード証券の口座開設だけはやっていて、お小遣いで少し買っていたりもしていた。

但し、投資については全くの素人で、聞いたことある会社を何となく購入していたりしたのだが、タイミングが悪かったことも会って、5銘柄ほど買っては全てが含み損を抱えていた。ゲームが好きだったので「コーエー」、大学の友達が行ってるので「日テレ」、名前が近いので「シダックス」、ハムが好きなので「プリマハム」とかの銘柄で全損していた。

僕は何となく、この株式トレードで挽回しないと、お惣菜屋の損失はカバー出来ないと感じていた。とにかく、毎日、毎日、数万円の損失をしているのだ。貯金もなく、日々、身体を削られるような想いをしていたので、「なんとかしなければ」と必死だった。

投資と言ってもそんなに貯金がなかったので、初めて「信用口座」というものを開いた。よくKくんも「レバレッジ、レバレッジ」と言っていたので、レバレッジをかけないとダメなんだなと思った。

僕は前の職場でスカパー社員だったので、スカパーのチューナーをもっていたので、朝6時に起きてスカパーのブルームバーグチャンネルを見た。朝イチでそういうニュースを見た上で、9時からのトレードに臨むという感じだった。ニュースは何を言ってるのかさっぱり分からなかった。

初めは良く分からなかったので、とにかくブルームバーグを流しながら、Eトレード証券の画面を見るという日々が続いた。板の見方も良く分からなかったし、まだそんなにリアルタイム処理が出来てなかったような頃だった気がする。

午後に惣菜屋に出ると、何とかタカギさんとパートの方たちだけで午前中は回せているようだった。今、考えるとそもそもお客さんが少ないので、回せるもへったくれもなかった。ランチタイムだけ少しお客さんが来るという程度だった。

進展することなく日々が続いていた。とにかく、ブルームバーグを観ててもどうにもならない。株式トレードっていっても、まあやってみなければ分からないなってことで、最初に何か適当な銘柄を買ってみようと思った。前の会社でソフトバンクと光通信のジョイントベンチャーの立上げ経験があり、光通信の人たちは朝から晩までメチャクチャ働いていたので、とりあえず「光通信」買ってみるかってノリで、初めて信用口座でレバレッジをかけて光通信株を買ってみた。ほぼ、全力買いだった。

=============

その後、光通信はストップ安が続いた。

Eトレード証券の画面は見たことのないマイナス金額が表示された。

「惣菜屋の損失を取り返せねば」という思いで、藁をもつかむ思いでトレードをやってみたが、そのパソコン上に表示されている赤字のマイナス金額は僕の想像を越えたものであり、サラリーマン生活7年間の貯金がほぼ全てなくなってしまうものだった。

「終わった。。。」

僕の頭のなかで何かが壊れた音がした。

当時、まだ僕は独身であり、結婚する予定もなかったけど、僕の頭のなかでは僕と奥さん(想像上の)と子供(想像上の)が映っている家族写真がバラバラと壊れるシーンが想像された。

午前中のトレードで脳に致命的なダメージをうけたまま、午後は惣菜屋の店頭に立って笑顔で「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」を言わなければならなかった。あの時、僕は本当に笑えていたのだろうか。いや、確実に顔は歪んでいたと思う。

※当時の死相が出ているという写真 (撮影:ホリウチ氏)

そんな最中、午後の休憩中にパートのお母さんから、

「ちょっとご相談があるのですが、休憩中に少しお話できませんか?」とメールが来た。

タカギさんからのセクハラに困っているという内容だった。

=================

20代の僕にとっては、子連れのお母さんたちは「オバサン」という感覚で決して女性として見ることは出来なかったのだけど、60代のタカギさんにとっては確かにいい感じに熟したストライクゾーンだったかもしれない。今考えると、接客業であるし、小綺麗な主婦の方々を採用していた気がする。

その中で「少し小泉今日子似」のバツイチ子供2人のお母さんがタカギさんに付きまとわれているとのことだった。執拗に告白してきて困っているとのことだった。

泣き面に蜂、とはこのことか。

20代店長の僕が、60代店長代理に何を言えばいいのだろうか?

「セクハラ、困ってるみたいです。辞めてください。仕事に集中してください」とでも言えばいいのだろうか。

こちらが店舗の赤字や資金繰り(トレードでの損失補てんからの、逆に激しくヤラレ)に心身苦しめている中、店長代理は僕の目を盗んでパートの女性に手を出そうとしていた。

=================

拝啓 平素より皆様方には格別のご支援を賜り誠に有難うございます。

さて、このたび、「好味や」(住所:千葉県市原市五井西5-12-7 TEL:0436-20-0141)は11月24日をもちまして、閉店することとなりました。

 今年の6月19日のオープンから現在に至るまで、弊店の運営にあたりましていろいろとご協力頂きまして誠に有難うございました。

 皆様方の今後のご発展を心より祈念いたしております。

敬具

千葉県市原市で華々しくオープンした惣菜屋「好き味や」はほんの5ヶ月ほどで閉店した。

エクセルやらパワポやらこのプロジェクトで僕一人が作った資料は200以上あった。

いろんなことがありすぎて、トレードロス&セクハラ騒動からの閉店までのオペレーションの記憶があまりない。

ただ明確に記憶に残っているシーンは、そんな心境の中、夜8時を過ぎて一人で誰もいない薄暗い店舗で、その日の日次売上をチェックするためにレシートを「ガガガ、ガガガ」と出力する音だけが響く中、椅子に座ってぼんやり和風調のお店の天井をみあげると、こげ茶色した太い柱が何本かあって、その柱に縄などをくくりつけてみて、その縄に首をかけてぶら下がったらそれは絵になるだろうなと思ったし、それは1992年の月9野島伸司脚本ドラマ「愛という名のもとに」のチョロを思い出させるものだった。

=================

半年ほど田舎生活をしていると、脳はすっかり変わってしまっていた。

久しぶりの東京は地下鉄に乗るだけで、車内広告の中吊り文字情報やら、人の話し声やら、とにかく情報が多くて処理できない感じだった。

「好き味や」は閉店し、有限会社スダックスは僕が連帯保証した3,000万ほどの借金と、ほぼ同額の累損だけが残った。

以前住んでいた足立区綾瀬ではなく、気分をかえるべく、杉並区の新高円寺で月7万ぐらいのアパートに住みはじめた。

千葉県では「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」以外は日々そんなに喋ることもなかったので、ホントに話し方も忘れてしまって、赤坂のIT企業に復帰して打ち合わせで人と喋るのがとても難儀だった。

借金が頭の中から離れることはなく、毎日毎日「ヤバイヤバイ」と脳内でつぶやく日々だった。資本ゼロで始められて、借金を返せるようなビジネスをネットで検索したりしていて、その頃第一次「情報起業」ブームが来そうな感じで、情報起業家にでもなろうかと思っていた。

それだけではリスクがあるので、一応社外役員として席を残してあった赤坂のアエリア社でもCFOとして仕事をした。CFOといってももうVCさんは株主にはほとんどいないし、売上を上げないとしょうがないので、提案営業にいったり、接待に付き合ったり、デバックしたりした。ITバブルは弾けていたのだけど、2003年の10月に「カカクコム」社が上場し、「あれ?もしかしたらまだITいけるかもな」とKくんが言い出し、「速攻で上場準備しようぜ」ってことになった。

情報起業家の準備としてメルマガ発行などをする傍ら、僕は「どうせ無理だろう」と思いつつ、上場準備CFOもやることになった。主幹事証券を選定して、大手は無理だったので、やってくれそうな三番手クラスの証券会社(現岩井コスモ証券)と付き合うことにした。

ここからの1年についてはまたの機会に書くかもしれないけど、2004年12月にアエリア社は現東証ジャスダック市場に上場した。この1年もそれなりに濃厚ではあったけれど、物語としてはこの惣菜屋のドタバタ劇ほどでは無い気がする。

僕は無宗教だけど、何となく、「神様はいるかも」と今でも思っている。

惣菜屋閉店から15年が経った。トラウマになっていたので、あの日から千葉県市原市には一度も足を踏み入れてなかった。これを書くにあたって、久しぶりにグーグルマップのストリートビューで当時の店舗周辺の写真を見た。確実に時間が僕の心を風化させてくれているので、そろそろ振り返りに現地を訪れてもいいのかもしれない。

ストリートビューで確認すると、「好き味や」があった店舗は、今は老人介護のデイサービス店舗になっていて、駐車場には老人を送迎するための白いバンが2台止まっていた。

著者:須田 仁之 (from STORYS.JP)

© 1010株式会社