震災から7年 ボランティア活動に励んだ少年たちがプロ野球へ、胸に秘める想い

日本ハム・鈴木遼太郎【写真:石川加奈子】

東日本大震災から7年、ボランティア活動に励んだ少年たちがプロ野球の世界へ

 東日本大震災から7年。震災時、地震や津波で傷ついた生まれ育った街でボランティア活動に励んだ少年たちが今、プロ野球選手になっている。

 阪神のドラフト1位ルーキー・馬場皐輔投手は宮城県塩釜市の出身。マグロの水揚げ高、かまぼこなどの水産練り製品の生産量で日本一の港町で育った。昨秋のドラフト会議で清宮幸太郎、安田尚憲との交渉権を獲得できなかった阪神とソフトバンクが指名。金本知憲監督が当たりくじを引き当て、阪神に入団した。

 22年間、生活してきた宮城を離れ、関西で勝負をする。ドラフト後、馬場はこう話している。

「震災も経験しましたし、小さい頃から宮城のチームで育ってきました。関西で野球をすることになりますが、1軍に定着して、交流戦とかで宮城で投げられれば一番、いいのかなと思います。応援してもらっているので期待に応えられるように頑張りたいと思います」

 震災も経験――。

 2011年3月11日。その日、塩釜市立第三中学校の卒業式を終えた馬場は、父・恒彦さんとキャッチボールをしようと自宅を出たところだった。卒業したばかりの中学校に避難。自宅周辺は浸水した。

「震災後、塩釜のボランティア活動にほぼ毎日、出ていました。水が引いた民家のヘドロを取ったり、いらない家具を捨てたり。毎日、公民館から派遣されていくんです。友達と通って、車でいろんな家に派遣されて。ゼッケンとかつけるんですよ。緑のゼッケンをつけて、マスクや手袋をつけて、その家の人の指示に従って泥や荷物を外に出して。2週間くらい、やっていましたね、そういう生活」

 仙台育英高の入学式は4月末に延期された。入学後はところどころ、がれきが残る通学路を自転車で通った。同学年には現ソフトバンクの上林誠知外野手や阪神でも同僚になる熊谷敬宥内野手がおり、2年秋には東北大会、明治神宮大会で優勝。3年春夏と甲子園のマウンドを踏んだ。仙台大では1年春から150キロを超える直球とスライダーなど豊富な変化球を武器に台頭。「外れ外れ」ながら2球団競合の1位で夢を叶えた。

日ハム6位の鈴木が忘れられない景色

「震災後、初めて日和山から見た景色は今でも忘れられないので」

 日本ハムから6位指名を受けた鈴木遼太郎投手は宮城県石巻市で生まれ育った。日和山とは、高さ56メートルの小高い丘にある石巻市を一望できる景勝地・日和山公園のことだ。松尾芭蕉も訪れ、『奥の細道』にも登場する。

「高校1年の秋くらいだったかな。ランニングのついでに行ったんです。門脇小学校が火災で燃えている動画は見ていたんですけど、本当に何もなかったですね。高校の時、毎年、日和山にある鹿島御児神社に参拝に来るんです。参拝後に降りて、『がんばろう!石巻』の看板の前で一人ひとり、抱負を宣言しましたね」

 日和山と太平洋の間にある門脇地区と南浜地区は6メートル超えの津波と火災で壊滅的な被害を受けた。あの日、ここに登って津波から逃れた人もいれば、たどり着けなかった人もいる。両地区で400人以上が犠牲になった。

 7年前の3月11日。鈴木も馬場と同様、中学を卒業した日だった。

「母とコンビニにいました。お昼ご飯を買っていたら、地鳴りから揺れ始めたんです。レジに母がいて、自分はガムとかを見ていたら地震が来て。自分、ガムの棚を押さえました。立っていられなくて、何かを掴みたかったんです」

高校の恩師からかけられた言葉「野球で悩めるだけ幸せ」

 その後は母校・蛇田中でボランティア活動に精を出す日々を送った。

「校庭に車がいっぱい来るので、交通整理とか。トイレを流すための水をプールから運んだり、赤ちゃんのミルクを作ったりしていましたね。食事、並ぶじゃないですか。その配給の手伝いもしました」

 入学予定の石巻西高校の校舎は避難所になり、体育館は最大約700人の遺体安置所になった。4月の終わりに入学式が行われ、「自衛隊の音楽隊が来てくれた覚えがあります」。野球部ではエースとして2年夏の8強入りに貢献。東北学院大で力を伸ばした。

 高校時代、石垣賀津雄監督から「打てないとか、ストライクが入らないとか、野球で悩めるだけ幸せだぞ。野球ができない人のことを考えたら、幸せだ」という話をされてきたという。

「震災を経験して、これ以上の苦しみはないと思っています。野球で悩んでいるだけで幸せなんだなと震災を通して感じているというか。震災の時、生活するだけで不便だったので。電気も水道もなくて。それを考えたら、本当に幸せなんだなと思います」

■石巻から20年ぶりに誕生したプロ野球選手、「元気や勇気を与えたい」

 野球ができる幸せ――。挑む世界の厳しさは覚悟の上。15歳の経験や目にした光景は自らを奮い立たせるだろう。

「自分、ずっとチャレンジャー心を持ってやってきたんで。高校でも大学でもそうですし、プロでもその気持ちを変わらずに持っていきたいなと思います」

 1学年上が石巻工でセンバツに出場した世代。石巻商は同学年が東北大会に出ており、高校時代は同地区のライバル校を意識して練習に励んできた。大学では、東北福祉大や仙台大を倒すためにマウンドに登ってきた。そんな「チャレンジャー心」が鈴木を最速150キロ右腕に成長させ、夢の扉が開いた。石巻から20年ぶりに誕生したプロ野球選手はドラフト後、何度も、何度も、「石巻に元気や勇気を与えたい」と口にしてきた。その言葉には実感も重みもある。

 あの時、いったいどれほどの人が希望や生きる気力を失っただろうか。当たり前のことが当たり前ではない中、助け合いの輪が広がり、それぞれができることに没頭した。そして、多くの人が復興の一助を担った。馬場も鈴木も15歳でそんな経験をし、地元の高校、大学を経て、人に夢や希望、元気を与える仕事に就いた。

 故郷を離れ、プロ入り後、初めて迎えた「3.11」。彼らは何を思い、シーズンに入るのだろうか。

(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)

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