NPB史でも珍しい外国人“支配下捕手”登録 中日に27年ぶりに誕生なるか

NPB史でも珍しい外国人“支配下捕手”中日に27年ぶりに誕生なるか【写真:編集部】

中日にキューバ人捕手のマルティネスが入団、助っ人の捕手登録の例は…

 果たしてNPBの歴史でも珍しい外国人キャッチャーが、1軍の舞台に立つことはあるのだろか。中日が、キューバ人のアリエル・マルティネスと育成選手契約を結んだ。このマルティネス、ポジションは捕手。まだ21歳と若く、マタンサスでプレーしていたキューバ国内リーグの2017-2018シーズンは68試合に出場し、打率.256、6本塁打、30打点の打撃成績をマークしたキューバ期待の強打の捕手である。

 毎年、数多くの助っ人外国人が日本にやってくる。だが、助っ人外国人捕手となると、その存在はかなり稀有なものとなる。最近では2015年に楽天に在籍したアレハンドロ・ゼコビア(イースタンリーグ30試合でマスクを被った)、2013年から2年間DeNAに在籍したケビン・モスカテル(2013年にイースタンリーグで11試合、2014年に3試合でマスクを被った)らがいたが、ともに育成契約だった。 

 支配下契約となると、1989年から1992年までロッテに在籍したマイク・ディアズまで遡る。1989年に来日したディアズは外野手として入団。1年目に130試合に出場し、打率.301、39本塁打、105打点の好成績をマーク。2年目の1990年も128試合に出場して打率.311、33本塁打、101打点を記録した。起用は指名打者が中心だったが、2年目に村田兆治とバッテリーを組むなど捕手としても出場すると、3年目は捕手として登録された。これが、NPBの歴史で、外国人が捕手で支配下登録された最後のケースとなっている。

 2000年に中日に在籍し「ディンゴ」の愛称で登録されたデーブ・ニルソンは、オーストラリア代表の捕手。ブルワーズ時代には野茂英雄とバッテリーを組んだこともあるが、中日では外野手登録。18試合に出場しただけで退団となったが、1試合だけ捕手としてマスクを被ったこともある。阪神の新助っ人のウィリン・ロサリオはロッキーズ時代の2012年には28本塁打を放った捕手。2015年からは一塁手での出場がほとんどだが、緊急事態で応急処置的にマスクを被ることは可能だろう。

1970年代以降はめっきり減少している助っ人捕手

 この他に挙がる主な外国人捕手は以下のような選手たちがいる。 

バッキー・ハリス(1936~1938年 名古屋軍、イーグルス) 
チャーリー・フッド(1953年 毎日) 
チャーリー・ルイス(1954年~55年 毎日) 
ドン・ブッサン(1955年 トンボ※外野手) 
ロン・ボトラ(1960、1961年 近鉄) 
ニック・テスタ(1962年 大毎) 
エイドリアン・ギャレット(1977年~1979年 広島※外野手) 
フランシスコ・キャブレラ(1994年 オリックス※内野手) 

 バッキー・ハリスはNPB史上初の外国人選手として知られ、捕手として1936年に中日の前身である名古屋軍に入団したロサンゼルス出身のアメリカ人。1937年に後楽園イーグルスへと移籍し、同年秋にはMVPに輝いている。チャーリー・ルイスは2年間、毎日で活躍して2年連続でベストナインに輝いている。 

 ボトラは捕手として入団し、1960年からは投手に転向した異色の選手。ブッサン、ギャレット、フランシスコ・キャブレラは本職は他のポジションだったが、緊急時に捕手を守っている。また、田中義雄(1937年~1944年、阪神)、広田順(1952年~1956年、巨人)、藤重登(1956年~1961年、南海、阪神)といったハワイ出身の日系人捕手もいた。 

 投手とのコミュニケーションが欠かせず、扇の要として「グラウンド上の監督」とも言われる捕手。それだけに、言葉の壁が立ちはだかり、やはり外国人が担うのは難しい。戦前、戦後はそれなりの数の外国人捕手がいたが、1970年代以降はめっきり減少している。中日に新たに加わったマルティネスは支配下登録を勝ち取り、27年ぶりに捕手登録の外国人選手となれるか。

(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)

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