⑫完 大浦天主堂(長崎市) 宣教師と2世紀ぶり「再会」 続々信仰表明 禁教令撤廃へ

 長崎の南山手は、かつての外国人居留地の面影を残す異国情緒の町だ。大勢の観光客が行き交う石だたみの坂を上ると、天高く十字架を掲げる大浦天主堂が見えてくる。
 大浦天主堂は幕末の1864年、居留地で暮らす外国人のための教会として建てられた。1597年に豊臣秀吉の命によって長崎・西坂で処刑された「日本二十六聖人」にささげられ、建物は殉教地がある北の方角を向いている。
 建設はパリ外国宣教会が派遣したフューレ、プティジャン両神父が進め、天草の大工棟梁(とうりょう)、小山秀之進(こやまひでのしん)が工事を請け負った。「旧グラバー住宅」をはじめ居留地の洋館や道路などを多く手掛けていた小山は、三つの尖塔(せんとう)と格子状の壁を備え、内部は教会独特の「こうもり天井」を持つ日本的な教会をつくりあげた。
 天主堂は明治時代に改築されて現在の姿になり、国内に残る最古の教会として1933年に国宝になった。45年8月9日の原爆で大破したが、修復工事を経て53年にあらためて国宝に指定された。
 隣接の旧羅典(らてん)神学校(国指定重要文化財)や旧長崎大司教館を含む境内は国の史跡になっている。2016年には、ローマ法王庁(バチカン)が歴史、宗教的に特別な教会「小バジリカ」と国内で初めて認定した。

約2世紀ぶりに潜伏キリシタンと宣教師が再会した大浦天主堂=長崎市南山手町(小型無人機ドローン「空彩1号」で撮影)

 ■「信徒発見」

 幕末の1865年3月17日、長崎・浦上村の杉本ゆり、森内てるの姉妹ら男女十数人が、「ふらんす寺」と呼ばれていた大浦天主堂を参観した。ゆりは祈りをささげていたプティジャン神父に近づき、胸に手を当てて言った。

「信徒発見」当時のままで残っている右脇祭壇の聖母マリア像=大浦天主堂

 「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」
 驚く神父に、彼女は「浦上では、ほとんど皆私たちと同じ心を持っています」と告げ、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねた。
 江戸幕府がキリスト教を禁じる中、ひそかに信仰を守ってきた潜伏キリシタンが宣教師と出会うのは実に2世紀ぶりのことだった。この歴史的な出来事は「信徒発見」と呼ばれている。
 浦上は大浦天主堂から約5キロ北方に位置する。安土桃山時代の一時期にはキリスト教の修道会イエズス会が領有していた。禁教令の下でも地域ぐるみで信仰を続け、洗礼やオラショ(祈り)を伝承し、仏像を聖母マリアに見立てた「マリア観音」を拝んでいた。
 「日本キリシタンの子孫出現」-「奇跡」の報はすぐにヨーロッパへ伝わった。当時のローマ法王ピウス9世は目に涙を浮かべ、「このような神の恩恵はわが世に一度であろう」と感激したという。

 ■高札を撤去

 信徒発見の後、県内の潜伏キリシタンは続々と宣教師の指導下に入り、禁じられていた信仰を表明する地域も現れた。五島では「五島崩れ」と呼ばれる迫害が起き、明治新政府は浦上村の信徒約3400人を流罪にするなど激しく弾圧した。
 これを受け、米、英、フランスなど諸外国は「信仰の自由を認めよ」と厳重に抗議した。政府は1873年2月、ついにキリシタン禁制の高札を撤去した。江戸初期から259年間に及んだ禁教期は終わりを告げた。
 毎年3月17日、大浦天主堂では信徒発見を記念し、ミサがささげられる。一心に祈る信者を、浦上村の潜伏キリシタンたちがひざまずいた右脇祭壇のマリア像が優しく見守る。
 森内てるから数えて5代目の子孫、松尾勝さん(73)=長崎市錦1丁目=も毎年、信徒発見ミサに参列する。「若い頃は真面目な信者じゃなかったが、年を取るにつれて、神の恩恵によって生きていることが分かってきた。神に、先祖に、両親に感謝です」。先祖から受け継いだ信仰は実りの時を迎えているようだ。
 2世紀以上にわたる禁教の中、人目を忍んできた潜伏キリシタンの祈りは、か細く、弱いようであって、本当は強く、したたかだった。祈りの声は途絶えることなく現代までつながっている。キリシタンは大切なものを守りながら、今も「旅」を続けているのだ。
◎メモ
 JR長崎駅前から路面電車で大浦天主堂下まで10分、同天主堂まで徒歩5分。要拝観料(大人600円、中高生400円、小学生300円)。4月から境内にキリシタン博物館が開館するのに伴い、大人料金は千円になる。長崎駅から徒歩5分の西坂町に日本二十六聖人記念館がある。同天主堂(095・823・2628)

◎コラム/人権の扉を開いた姉妹

 松尾さんに案内してもらい、信徒発見の立役者となった杉本ゆり、森内てる姉妹の墓を訪ねた。姉のゆりは長崎市坂本3丁目の墓地、妹のてるは同市本原町の白山墓地にある森内家の墓所に眠っている。
 信仰表明後、ゆりは福山(広島県)に、てるは津和野(島根県)に流された。てるは厳しい拷問にも遭ったという。信仰が解禁された後、二人とも浦上に帰還した。
 ゆりは信徒発見の時、「パーテル(神父)さまが来たことを確かめられたら、殺されてもよい」と言って大浦天主堂に向かったという。信仰の自由は基本的人権の柱だ。彼女たちのいちずな信仰心がキリシタン禁制に終止符を打ち、日本における人権の扉を開いた、といっていい。
 松尾さんは「自分なら拷問を受けたら耐え切れたかどうか。先祖は本当にすごい」と潜伏キリシタンの先祖が秘めていた強さに感服する。

墓所で先祖の森内てるについて話す松尾さん=長崎市、白山墓地

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