明治初期・長崎 孤児養護の先覚者 岩永マキ 920人養育か 戸籍簿、名簿 施設で発見

 明治初期の長崎で孤児養育に取り組み、近代社会事業の先覚者といわれる岩永マキ(1849~1920年)が引き取った孤児の戸籍簿と名簿が21日までに、長崎市石神町の児童養護施設、浦上養育院で見つかった。両簿によると、マキが育てた孤児は約920人に及ぶ可能性がある。研究者は「マキの功績を裏付ける貴重な資料」と評価している。
 マキは長崎・浦上村の潜伏キリシタンの家に生まれた。1865年の「信徒発見」の後、カトリック信者になり、信仰と社会福祉事業に生涯をささげた。74年、3人の女性信者と共に、浦上本原郷に国内初の児童養護施設とされる「小部屋」(現在の浦上養育院)を開設し、多数の孤児を引き取って育てた。
 見つかったのは、1898年の「戸籍簿」と「棄児名簿」で、いずれも謄本。戸籍簿は約270人分の孤児の出生日と入籍日を記す。名簿は約650人分の名と、マキが引き取った日などを記録している。両簿に記された名は重複していないとみられ、マキは約920人を育てた可能性がある。
 両簿は今月12日までに、浦上養育院の倉庫で見つかった。同院は1945年の長崎原爆で全壊し、2年後に再建された。両簿は焼け残ったとみられ、72年にキリシタン史研究者の故片岡弥吉氏が、女性誌「婦人之友」に連載した寄稿で紹介していたが、その後は行方が分からなくなっていた。
 マキに詳しい元活水高教諭で長崎女性史研究会会員の葛西よう子さん(81)によると、マキは生前に新聞のインタビューで、引き取った孤児の数を「5、600人」と答えていた。葛西さんは「原爆によりマキの資料はほとんど消失した。両簿はマキの実績を裏付ける資料で、孤児の正確な数を把握する手掛かりになる」と話す。
 マキの遠縁に当たる長崎市辻町の岩永勝利さん(81)は「両簿の実物を見るのは初めて。マキがたくさんの孤児を受け入れたことが分かり、誇らしい思いがする」と喜んでいる。
 両簿は近く長崎市平和町の浦上キリシタン資料館で展示される予定。

1910年ごろに撮影された浦上養育院。中央の柱の後ろに立つ女性が岩永マキとみられる(浦上養育院提供)
岩永マキが引き取った孤児が記録されている戸籍簿と「棄児名簿」(奥)=長崎市平和町、浦上キリシタン資料館

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