まさに怪物!日本代表を“涙目“にさせた6人のアフリカ人

本日、日本代表はアフリカのマリ代表と国際親善試合で対戦する。

そこで今回は、過去に日本代表を苦しめたアフリカ人選手を特集しよう

オグヘネカロ・エテボ(ナイジェリア)

まずはリオ五輪での衝撃が記憶に新しいこの男だ。

資金難を巡る問題から、ナイジェリアが現地に到着したのはなんと試合開始の6時間前!しかしその疲れも何のその、準備万端で開幕を迎えた日本代表からエテボは4ゴールを記録し、個の力で勝利をもぎ取った。

ちなみにナイジェリアの“お金”を巡る騒動はその後も続いたが、日本戦での奮闘に感動した高須クリニックの高須克弥氏から支援を受け、大会で見事に銅メダルを獲得している。

ディディエ・ドログバ(コートジボワール)

プレミアリーグの猛者たちをも震え上がらせたサッカー史上最強とも言えるフィジカルモンスター。日本もその餌食になった。

2014年W杯コートジボワール戦、1点をリードした日本だったが、ドログバ投入によって優位性は完全に喪失。当時の彼はすでに36歳という年齢だったが、鬼のような屈強さで守備陣をブチ壊して逆転劇につなげた。

実はドログバはあの試合でゴールもアシストもしていない。にもかかわらず誰よりも強いインパクトを残しており、この一戦で日本人はドログバの本当の“強さ・怖さ”を知ったといえる。

対峙した森重真人も「ドログバが入って臆病になってしまった」と吐露している。

セルジュ・オーリエ(コートジボワール)

2014年ワールドカップのコートジボワール戦はドログバのインパクトがあまりにも強烈だったが、セルジュ・オーリエの恐怖も記憶に新しい。

この試合でに2ゴールはいずれもオーリエのクロスから生まれており、まさにMVPに近い活躍を見せチームの勝利に貢献した。

大会後、オーリエはトゥールーズからPSGへと移籍しており、この日本戦がキャリアの大きな転機になったことは間違いない。

クインシー・オウス=アベイエ(ガーナ)

U-20オランダ代表時代の話だが、その衝撃度において今なお語り草となっているのが、2005年ワールドユース日本戦でのクインシーだろう。

アヤックスのユースで育ち、アーセナルでデビューした“早熟の怪物”は、異次元の身体能力とドリブル技術で中村北斗(現V・ファーレン長崎)を子供扱いに。日本は本田圭佑らが数人がかりで防ごうとするも全く歯が立たず、文字通り“ちんちん”にされた。

日本人は伝統的にアフリカ系の選手を苦手としている。しかし、ここまで“無双”されたのは後にも先にも記憶にない。

ヨディ・ルコキ(コンゴ民主共和国)

日本人に“クインシーの恐怖”を蘇らせたのがルコキだろう。

ザイールの首都キンシャサ出身だが、クインシーと同じくアヤックスの下部組織で育った彼は、期待のウィンガーとしてオランダ代表に選出。2012年のトゥーロン国際に出場し、グループステージで日本と対戦した。

日本はこの試合で3-2と逆転勝利したが、ルコキには好き放題にされた。試合後、対峙した比嘉祐介 (現東京ヴェルディ)が語った「あいつ史上最強だった」という言葉は今や伝説である。

なお、彼は後にルーツのコンゴ民主共和国の代表に鞍替えしている。

ベニ・マッカーシー(南アフリカ)

2000年のシドニー五輪、1999年のワールドユースで準優勝をしたメンバーにその上の世代が絡んだ日本代表は黄金世代と呼ばれた。

小野伸二を怪我で欠いたものの、中田英寿、中村俊輔、稲本潤一らそうそうたるメンバーは五輪での上位進出の期待感を持つには十分すぎるものだった。その日本をひやりとさせたのが初戦の南アフリカ戦である。

日本はブラジル相手の勝利は可能性が高くないことから、スロバキア、南アフリカを相手にどれだけ勝ち点を稼げるかが焦点であった。しかし、初戦の南アフリカも侮れないチームであった。

マンチェスター・ユナイテッドでプレーするクイントン・フォーチュンに注目が集まったが、後にウディネーゼ入りするシヤボンガ・ノンヴェテ、そして何より怖かったのが当時セルタでプレーしていたベニ・マッカーシーである。

当時日本テレビのアナウンサーだった船越雅史が実況を担当し、この試合で「実況アナ」として自分の地位を確立したが、それだけ壮絶な試合であった。

マッカーシーがボールを持つたびに、ただ単に船越アナが「マッカーシー」と呼ぶだけで、そのドリブル突破から得点を連想させるシーンが作られる恐怖に身がすくんだものだ。

日本は高原の2ゴールで先制されながらも逆転勝ちをおさめるのだが「一人の凄い個」に組織がもろく崩れていくシーンは試合結果以上に冷や汗をかき、何度恐怖におののいたか…今でも忘れられない1シーンである。

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