「春」だからこそ思い出したい、挫折・困難を乗り越えたサッカー選手たち

もうすぐ3月も終わり、4月が迫る今日この頃、皆さんいかがお過ごしだろうか。

春という季節はどちらかというと爽やかなイメージを連想しがちである。受験や就活を終え、桜が舞い散る中で期待に胸を膨らませながら新たなスタートを切る。「楽しみだ!」「頑張るぞ!」そんなウキウキした人々が街やSNS上にウヨウヨしている光景が多く見られる時期だ。

ただ、皆がウキウキした気分ではない。受験や就活で満足した結果が得られなかった人々は挫折感でいっぱいの中で春を迎えることになる。彼らにとって春は期待や希望のない状態でスタートを切らざるを得ない「残酷な季節」といえるだろう。

実は私も「残酷な春」を体感したひとりである。当時は周りが期待と希望に満ち溢れている中、ひとりネガティブな思いに耽っていた。

しかしそんな挫折や困難を克服し、地に足を踏みしめながら生きている人は決して少なくない。

愛媛FCジュニアユースの入団テストに落ち、高校、大学サッカーを経由して日本代表まで上り詰めたDF長友佑都(31・ガラタサライ)や、ガンバ大阪ユースへの昇格が見送られた中、高校サッカーからスターダムへのし上がった日本代表FW本田圭佑(31・パチューカ)など、花形サッカー選手でも皆が俗に言う「エリートコース」上がりではないのだ。

現在トルコ1部リーグの名門ガラタサライでレギュラーとして活躍する長友。中学進学時に愛媛FCのアカデミーの入団試験に落ちた経歴を持つが、そこから這い上がり、今では世界的なサッカー選手となった。

今回は彼らの他に「挫折・困難から這い上がったサッカー選手」を何人か紹介したい。今自分の将来に悩んでいる方は気持ちの整理がつかないかもしれないが、この記事を読んで少しでも前向きになれたら幸いである。

カカウ

国籍: ブラジル
ポジション: FW
生年月日: 1981年3月27日(36歳)

2000年代前半にドイツ・ブンデスリーガのシュトゥットガルトで活躍し、ドイツ代表としてもプレーしたブラジル出身のストライカー。2014~15年にはセレッソ大阪に在籍したことでも知られている。

ブンデスリーガでプレーする外国人選手のほとんどは自国クラブやスイス、オーストリアなど周辺国のクラブで活躍してからやって来るケースがほとんどだが、カカウは大きく異なる形でやってきた。彼はブラジルで全く活躍できず、半ば引退状態の中、サンバのダンスグループの一員としてドイツへやってきた。この時カカウ19歳。1999年のことである。

その後、彼はツテを頼りに当時ドイツ9部リーグに所属していたSVテュルク・ギュジュ・ミュンヘンに加入。当然アマチュア契約だったが、ここで活躍し2001年にニュルンベルクのリザーブチームへ移籍する。以後はトップへ昇格し、2003年、後に10年以上在籍することになるシュトゥットガルトへ加入。それから6年後、ドイツ国籍を取得し代表デビューを果たしたのだ。

ちなみに彼は現在、ドイツサッカー協会で人種統合に関する部門の役員として活動中。多民族国家のドイツにおいて、外国人の身ながらアマチュアからトップまでほぼ全てのカテゴリーを経験してきた彼にとって相応しい役職といえるだろう。

ペリクレス

国籍: ブラジル
ポジション: DF
生年月日: 1975年1月2日(43歳)

1998~00年までセレッソ大阪、2003年に当時J2に所属していたサガン鳥栖、翌2004年にはJFLのSC鳥取(※現在J3に所属するガイナーレ鳥取の前身クラブ)でプレーしたブラジル人センターバック。

1991年に行われたFIFA U-17世界選手権ではブラジル代表の4番を背負い、レギュラーとして活躍。サッカー選手として華々しいキャリアを築くかに見えた。

※ちなみにこのときブラジル代表を率いていたのは、2007年に横浜FCを率いたことでも知られるブラジル人指揮官ジュリオ・レアル氏(66)である。

だがその後彼のキャリアは暗転。20歳を迎える頃にはサッカー選手の引退を余儀なくされ、信じられないかもしれないが、1997年頃まで岐阜県の自動車部品工場でいわゆる“出稼ぎ労働者”として働いていた。

しかし、「あまりにもサッカーが上手すぎる」と驚愕した同僚の勧めでセレッソ大阪の入団テストを受け合格。以後はセレッソ守備陣の中心選手として2年間、レギュラーとして活躍した。

2000年に行われたJOMOカップでは、日本代表と対戦したJリーグ外国籍選抜の一員として元イタリア代表FWロベルト・バッジオとともにプレーしている。

カフー

国籍: ブラジル
ポジション: DF
生年月日: 1970年6月7日(47歳)

試合終盤でも尽きることのないスタミナと絶大なキャプテンシーを持ち、現役生活で築いた代表キャップは歴代最多の142。言わずと知れたブラジル代表の伝説的右サイドバックだ。

日本との関わりでは、2003年に横浜F・マリノスと加入に合意するも、土壇場でセリエAの名門ACミランへ移籍したことでも知られている。

そんな彼だが、ユース時代に鳴かず飛ばずの連続だった逸話はあまりにも有名である。

7歳でサッカーを始めるも大きなインパクトを残せず、ユース年代でブラジルの名だたる有名クラブ(一説によると、コリンチャンスやパルメイラスなど9つのクラブ)の入団テストを受験するも全て不合格。18歳でようやくサンパウロFCの下部組織に加入するが、それまでは受けては落ち、受けては落ちの不遇の日々を過ごしていたという。

どのクラブでも必要とされなかった少年がサッカー界の伝説的選手へ。これは決してシンデレラストーリーではない。彼の諦めない姿勢が身を結んだ結果だろう。

いかがだっただろうか。

今回は3人のみの紹介だったが、ペリクレスと同じく工場勤務から這い上がったイングランド代表FWジェイミー・ヴァーディ(30・レスター・シティ)など、彼らの他にも挫折や困難を乗り越えて成功を掴んだサッカー選手は多い。皆、紆余曲折を経て成功を掴んでいる。

厚生労働省の統計によると、現在日本の平均寿命は女性87.14歳 男性80.98歳。1歳を1分に置き換えると、サッカーでいう1試合(90分)に近い。そう考えれば少々強引だが、高校・大学入試や就職試験に失敗(失点)したとしても、それは前半16~25分辺りに1失点したに過ぎないのだ。

ただ現在は受験・就活戦争の激化が進み、たった1度の失敗(失点)でまるで人生(試合)が終わったかのような印象を受ける。志望校に落ちた、行きたい企業に行けなかった。そんな理由で新たな学校で不登校になったり、自殺する若者も少なくない。私もしばらく部屋に篭りっきりになった。

しかし、これを先程のサッカーの試合に置き換えてほしい。あなたがもしそのような立場でピッチやスタジアムにいたらどうするだろうか。失点に絶望し、前半16~25分辺りでユニフォームを投げつけてピッチを後にするだろうか。決して安くないチケットを破り捨て、早々と席を立って帰路につくだろうか。

違うだろう。

きっと選手なら「まだ時間あるぞ!」「切り替えてやるべきことをやろう!」「焦るな!」などコーチングを通して周りのチームメイトを励ますのではないだろうか。またサポーターなら「まだまだこれからだ!」「大丈夫。追いつける!」と更に大きな声でチャントを高らかに歌うのではないだろうか。

16~25分の間に再び不運な形で2点目を入れられたとする。現実では“もうダメだ”と絶望のドン底に落とされがちだが、サッカーの試合に置き換えるとそれは“危険なスコア”。まだまだ逆転可能という発想にならないだろうか。

そう、「まだまだこれから」なのだ。これまでいくつもの逆転劇がサッカー史に刻まれてきたように、これから先、どんな運命が待っているかはわからない。最後まで諦めずにピッチを走っているときっと何かが起こるかもしれないし、それは人生でも同じではないだろうか。

この記事を読んでいる皆様には、希望を捨てずに人生を歩んでもらいたい。

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