『樽とタタン』中島京子著 樽の中の少女と大人たちの物語

 主人公は、小さな少女だ。親が仕事に行っている間、彼女は小学校からその喫茶店へ直行。飾り物として置いてあった、大きな樽の中にすっぽりと収まり、大人たちの様子を見ている。店に訪れる客たちは、彼女に「タタン」というニックネームをつけて可愛がってくれる。人の中に溶け込むことがどうも苦手な彼女は、次第に、人には人それぞれの事情と物語があるのだということを、樽の中で学んでいくのだ。

 登場する大人たちは、皆それぞれに、ひとクセある人物である。常連の老小説家は、編集者の女性から一風変わった執筆依頼を受けて困惑している。神主さんと、歌舞伎俳優の卵の間には、何だかただならぬ空気が漂っている。「○○の場合」と言おうとすると、どうしても「ばやい」になってしまう青年は、タタンに孤独の何たるかを教える。サンタ・クロースを思わせる大男と、少女は不思議な友情を結ぶ。

 その、ひとつひとつの光景がきらりと光るのは、それが「すでに存在しない場所」であることを、書き手も、読者も、了解しているからである。ここでタバコをくゆらせている老小説家も、ホットミルクを出してくれるマスターも、何らかの事情で歌舞伎俳優と決裂した神主さんも、もう会えないのだとわかっている。だから、記憶は輝きを増す。驚くほど新鮮に、詳細に。

 人の目とか、人と接すること、それから自分のテリトリーから外へ出ていくことが、うまくできない少女「タタン」に、彼らは外へ出ることを強いたりしない。ただただ彼女を、対等に、友人の一人として扱う。その一貫した態度に、うっとりする。親子でも、師弟でもない、大人と子供の接し方。タタンはすくすくと育っていく。

 最後のエピソードでは、彼女と同い年の少女との友情が描かれる。その後、初めて、時間軸が(語り手の)“今”に戻る。語り手の実感の言葉が並ぶ。読み手は少し混乱する。これは作り話なのかそうでないのか、語り手は作家自身なのかそうでないのか、据わりのよくない気持ちになる、その瞬間、すべての登場人物たちの気配ががフッと消える。この読後感。本を閉じ、その余韻に身を委ねる。今ここにはない居場所と、今ここにある居場所。それらを転々としながら、人は、生きていくのだ。

(新潮社 1400円+税)=小川志津子

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