第5部「自問」(1) たった1人の〝挑戦〟 「声を束ね、国動かす」

 2017年秋、東京都内のホールは熱気に包まれていた。年に一度開かれる「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」の全国大会。会場には、ひきこもりの子を持つ親、きょうだいのほか、福祉の専門家や行政担当者の姿もあった。約40都道府県に支部を置き、会員数は約3800家族。その歩みは、たった1人の“挑戦”から始まった。
 
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 「まるで小説に出てくるような男だった」。埼玉県岩槻市(現・さいたま市)で情報誌を発行していた中村進(75)は、後にKHJを立ち上げることになる奥山雅久(故人)の第一印象をそう語る。

 トレードマークはあごひげとつえ。14歳の時に骨肉腫で片脚を失い、肺にもがんがあったが、精悍(せいかん)な顔つきに独特のオーラをまとい、酒やたばこをやめろという医師の言葉にも一切耳を貸さなかった。

 1990年代が終わる頃、50代半ばだった奥山がぽつりと言った。「息子の暴力が激しいので、妻と家を出た」。20代の長男は7年近く自宅にこもっていた。

 2000年には新潟県柏崎市の少女監禁事件(1月)、西鉄バスジャック事件(5月)が立て続けに起き、「ひきこもりは犯罪予備軍」という負のイメージが作られる。

 一方、親や家族は世間体を気にして声を上げられず、少人数の集まりが各地に点在するのみ。「これはもはや一家庭の問題ではない」。奥山はあえて実名を公表し、地元の県や市に支援を求めたが、門前払いが続いた。

 奥山に頼まれ、国会議員や首長、県議らを説得した元岩槻市議の平野祐次(59)は明かす。「不登校の対策でも、行政には『1%に満たない落ちこぼれのためではなく、成績優秀な子に予算をつぎ込むべきだ。将来社会の役に立ってくれるから』という空気があった。ましてやひきこもりの人はずっと社会に出てこないし、親の育て方が悪いだけだと…」

 奥山は00年10月、厚生省(当時)に要望書を提出し、「救済は皆無に近い」と訴えた。こうした活動がテレビや新聞で報じられると、中村の事務所に設置していた連絡用ファクスがせきを切ったように鳴り出した。全国から手紙も相次ぎ、1日に100通を超えることもあった。

 「国を動かすには、この声を束ねて突き付けるしかない。これは俺の天命だ」。奥山は送り主らを訪ね歩き、家族会への参加を呼び掛けていく。

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 ひきこもりの存在が知られるようになって十数年。本人や家族は今も、さまざまな問いの中にいる。(敬称略)

奥山雅久(中央)は国にひきこもり支援の要望書を提出した。その活動が報じられると、全国から家族会への参加希望が続々と届く=2000年10月、厚生省(当時)

 

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