【韓ポスコ創立50周年(上)】〈世界有数の鉄鋼メーカーに〉日本の支援で韓国鉄鋼業の礎 民営化を「第2の創業」に

 韓国ポスコは今月、創立50周年を迎えた。困難を極めた一貫製鉄所の建設から世界トップレベルの鉄鋼メーカーへと成長した歩みをたどる。(宇尾野 宏之)

 韓国が一貫製鉄所建設に動き始めたのは1950年代。計画は4度立案されたが、外資を調達できなかったことですべて失敗した。製鉄所建設のめどが立たない中、64年にドイツ、65年に米国を訪問した朴正煕大統領によって国際製鉄借款団(KISA)が設立。主に欧米メーカーが支援する格好で一貫製鉄所の建設がようやく具体化し始めることとなった。

着工までの苦難

 これを受け、韓国政府は67年に浦項を建設予定地に選定。大韓重石を事業者と定めた。同年「総合製鉄建設事業推進委員会」発足などを経て、68年4月1日にポスコの前身となる「浦項総合製鉄」が設立。鉄鋼メーカーへの第一歩を踏み出した。

 しかし69年初、経済性に関する疑問から欧米が計画に否定的な見方を示し始めると、KISAを通じた外資調達計画が行き詰まり、急きょ「対日請求権資金」を製鉄所建設に転用する案が浮上。ポスコ創業者で韓国鉄鋼業の父とも称される朴泰俊氏を中心とした政財界関係者の尽力により、同年8月の「第三次日韓閣僚会談」で日本政府の支援が決定した。

悲願の一貫製鉄所

 資金だけでなく、朴氏が韓国紙のインタビューで「新日本製鉄の稲山嘉寛会長に絶対的に依存した」と述べたように、技術に関しても日本鉄鋼業から支援を受けられるようになったことはポスコにとって大きなメリットとなった。

 この時代における日韓鉄鋼業の交流は肯定的にも否定的にも評価される。ただ、どのような見方であれ、鉄鋼業を通じたこの交流は戦後の日韓関係における歴史の一こまを飾っている。

 韓国悲願の製鉄所は70年4月1日に慶尚北道迎日湾で着工。73年6月9日午前7時30分、浦項製鉄所1号高炉が出銑を始めた。着工までの道のりで朴氏の貢献は大きかったが、着工後も朴氏の貢献は多大だ。

 同製鉄所は出銑後も設備増強を進めるが、特に第3期工事では「設備不良を絶対に許さない」という朴氏の信念が示された逸話が残っている。77年8月、工程の80%が完工した発電送風設備の基礎部を不良工事だったがために、朴氏が爆破を指示したというものだ。

 81年2月に4期工事が完了。83年5月、4期二次工事が完工し、浦項製鉄所は粗鋼年産910万トン規模の一貫製鉄所となった。

 光陽製鉄所は87年5月、粗鋼年産270万トン規模の一貫製鉄所として竣工した。85年3月の鍬入れから約2年で竣工までこぎ着けている。

 この後もポスコは浦項製鉄所のノウハウを活用しながら、光陽製鉄所の拡張工事を続け、92年10月には4期工事を完工。光陽は粗鋼年産1140万トン規模の世界最大級の単一製鉄所となった。

 これにより、ポスコは浦項・光陽の2大製鉄所で粗鋼年産2千万トン体制を構築。世界第3位の鉄鋼メーカーにまで上り詰めた。

「ポスコ」に社名変更

 ポスコの民営化は、通貨危機の波が頂点に達した98年、政府が経済再建と競争力向上のためポスコを最優先民営化企業に選定し、急ピッチで進められた。およそ3年後の2000年10月、ポスコは民間企業に生まれ変わる。民営化は〝第2の創業〟と位置付けられ、02年3月には34年間使用した「浦項総合製鉄」から「ポスコ」に社名を変更した。

 民営化と社名変更を経て、ポスコはグローバル企業への道を歩んでいくこととなる。

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