【厚板溶断「ニューエイジ」設立50年】「顧客重視」貫き独自性発揮 建機向け主体に付加価値向上

 建機向けを主体とする厚板溶断加工業のニューエイジ(本社・茨城県結城郡八千代町若)が、1968(昭和43)年6月に設立(創業は61年3月)して今年で50年を迎える。節目にあたりこれまでの歩みを振り返るとともに、炭本治孝会長、炭本英治郎社長に話を聞いた。

 奈良県との県境に近い京都府相楽郡の山あいで生まれ育った創業者の炭本英治氏が戦後、鶴見(横浜)の汐入町で親戚が経営する「炭本商店」に誘われ、奉公にあがる。商材は主にアングルやチャンネルなど一般形鋼だったが、これが「鉄」と出会うきっかけだった。

 ここで鋼材販売を経験したのち1961(昭和36)年に独立。炭本商店の一角を賃借し「英治商店」を立ち上げる。形鋼販売を手掛けるが、64~65年あたりは折しも高度経済成長期の真っ只中にありながら東京五輪開催前の都市インフラ整備が一段落したあとの一時的な反動不況が到来し、建設を主体に重工産業の業績不振が顕在化。鉄鋼業界でも大手特殊鋼メーカーが倒産した時期と重なる。

 そのあおりで建設用鋼材を扱う鉄屋のなかにはつぶれた店も多かったらしい。当然、不渡りリスクもかさむ。

 形鋼販売で業容を伸ばしていた英治商店は、昭和40年代に入り鶴見区駒岡の地(400坪)に移転。68(昭43)年には「英治鋼材」を設立する。ここを起点に今年が丸50年だが、こうしたさなかに同じ鶴見の地ですでに一般鋼材販売と厚板溶断に携わり、英治鋼材にとっては仕入れ先でもあった土井鋼材の創業者・土井一雄氏から「浮き沈みの激しい形鋼よりも厚板溶断のほうが安定しているし、加工仕事がこれからの主流になる」(炭本会長談)と助言を得た。これが転機となり、厚板溶断業に業態シフトしていくことを決意する。

加藤製作所との出会い

 厚板溶断に着手して間もなく、域内の製罐業から切板注文を受けた。その切板は、老舗建機メーカーの加藤製作所(以下、KATO)向けショベル部材である。最初は材料支給による賃加工だったが、これが、今も続く最大顧客のKATO向けを手掛ける第一歩だった。

 これを機に、KATOおよびその協力企業向け取引が徐々に広がる。ある時、協力企業の1社から「どうもKATOさんが千葉の茂原に新工場を出すらしい」との一報を耳にするやいなや、先行して新天地を物色。協力企業の伝(つて)で夷隅郡大多喜町に土地約2千坪を手当てした。これが、現在の千葉第1工場(75年1月完成)である。

 結局、KATOは群馬の太田に新工場を開設する。結果的に千葉進出は〝勇み足〟となるわけだが、千葉工場を開設したことでKATOが受注した海外大型案件の部材加工を受けることが可能となり「どうあれKATOさんのお役に立つことができた」(同)のは〝ケガの功名〟だった。「狭い横浜だけだったらとても受けきれなかった」(同)。

 海外案件向けもはじめは支給材・賃加工からのスタートだったが、注文が増えるにつれて「自家調達材対応」に切り替わっていく。資金需要が一気に増え、対応に苦慮した際「金融面で援助してくださったのも、やはり土井さんでした」(同)。

 そしてKATOの新たな海外大口受注を機に、その受注窓口に立ったニチメン(現双日)が英治鋼材の材料窓口も担う。材料メーカーは日本鋼管(現JFEスチール)だった。ここに「NKK―ニチメン―英治鋼材―KATO」のサプライチェーンが構築されることになり、のちにニチメンがNKKトレーディング(現JFE商事)に代わる。

 この頃、KATOはクレーン製造主体の茨城工場(猿島郡)に次ぎ、ショベル主体の群馬工場も操業した。英治鋼材も顧客重視の観点から「北関東進出」を決断。川崎で同じくKATO向けを手掛けていた多摩工業と共に結城郡八千代町若に土地7千坪弱を確保する。このうち2千坪強を英治鋼材が使用し、工場2棟を建てた。ここが今の本社工場である。82(昭57)年6月の話だ。

 不景気の折、工場は建てたが仕事がなく「当初は周囲の樹木を伐採し、しいたけを栽培していた」(同)。それでも茨城進出が契機となって英治鋼材はショベル向けに加えてクレーン向けも携わるようになる。ユーザー立地による〝地の利〟が評価された。

「ニューエイジ」誕生

 KATO向けで取引関係にある製罐業の1社が、KATO以外にキャタピラー社(キャタピラー三菱、以下CAT)とも取引があり、その縁でCAT向け切板溶断が始まる。きっかけは、CATが受注した大口海外案件向けだった。

 時を同じくして厚板溶断の同業他社がCATから撤退。その代替先の1社としても起用される。支給材・賃加工での切板納入が評価され、87(昭62)年8月からは住友金属工業(現新日鉄住金)―住友商事ラインでの直取引に発展する。

 この時期のもうひとつのトピックスは、88(平3)年4月に鋼材問屋の津田鋼材(現三井物産スチール)から池田啓志氏が入社したこと。池田氏と英治鋼材とのつながりは、千葉工場建設の話を聞きつけた池田氏が、建設用鋼材を売り込みに来たことが発端だった。

 時代は、長い景気低迷期を終えバブル景気へと突き進む。そのさなかの91(平3)年5月。英治鋼材は、厚板加工事業を分離・独立し、子会社「ニューエイジ」を設立。新社長に創業者の長男・炭本治孝氏(現会長)が就き、新社長を支える立場で池田氏が専務となった。英治鋼材は、資産管理会社となった。

 新生ニューエイジは、バブル崩壊後もKATO、CATを2本柱としつつ建機以外の需要産業にも挑戦する。そのひとつが造船分野であり、それを目論んで千葉第1工場の隣接地に「千葉第2工場」の建設を決め、96(平8)年9月に完成する。

次世代への技能伝承、着々と/茨城、千葉で「環境経営」も

危機到来、乗り切る

 政府の景気刺激策と97(平9)年4月からの消費税5%への引き上げを前にした駆け込み需要が、バブル後の景気を下支えする。

 KATO、CAT双方からの注文殺到を控え、現場の増員や能力増強、昼夜2直シフトなどで態勢を整えたが、それをはるかに上回る受注要請は完全にキャパを超えた。それでも「うちが断るわけにいかない」(同)との使命感で受けるだけ受け、あふれた分はよそに振ろうと思ったが「外注先も目いっぱい。にっちもさっちもいかなかった」(同)。いくら頑張っても能力には自ずと限界があり、納期トラブルが発生する。

 この一件は当時、関係者の内輪のなかで話題となり、口さがない一部の業界雀は「信用問題」「経営危機」云々…と騒ぎ立てた。もちろん、それが根拠のない憶測に過ぎなかったことは、今こうしてニューエイジが現存している事実が証明しているわけだが―。

 ただ、本当の試練はその後。旺盛な駆け込み需要の反動で受注量が激減する。時の政府が財政再建に向け緊縮策に走った結果、大手の金融や証券が倒産するなど景気低迷に陥る。タイバーツの急落に端を発するアジア通貨危機が追い打ちをかけ、円の急騰を引き起こし、建機など輸出型製造業が大打撃を被った。

 千葉第2工場を立ち上げたばかりのニューエイジにとっては、業績不振に輪をかけて借入金返済負担が重くのしかかる。企業存続への経営再建を模索した結果、英治鋼材とニューエイジの合併(存続会社はニューエイジ)という結論に至る。99(平11)年11月11日。再生を期し「1」が6つ並ぶ縁起を担いだ。

 そして翌年9月の創業者死去に伴い、池田氏(当時専務)が社長に就任。以降、一昨年4月末まで約15年半にわたり第一線で経営を舵取りし、会長となった炭本治孝氏がこれを支えた。

池田氏は「中興の祖」

 池田社長は「営業の顔」としてもKATO、CATをはじめ顧客との信頼関係を再構築しつつメーカーや商社、同業者とも人脈を広げ、ニューエイジの存在感を高めた。茨城、千葉の工場3拠点では切板の品質精度を落とさぬよう、設備の劣化更新を怠ることはなかったが、ただ単に能力を拡げるのではなく二次加工や機械加工、溶接など付加価値向上に向けた「複合一貫体制」整備を重視し、機能の深掘りを心掛けた。

 この政策は、リーマンショック前の好況時に建機需要が世界的に急増した際も変えず。能力拡張投資を最小限に抑え、自社能力を超える分は外注委託することでリーマンショック後に受注量が急減した際の業績悪化も軽微で凌いだ。

 この間に、鶴見の工場を閉鎖。千葉工場では環境経営システム「エコステージ」を導入し、その成果を踏まえて茨城工場でも同じく環境経営に取り組む。また、次世代の担い手である炭本英治郎氏(現社長、炭本治孝会長の長男)の入社に伴い、後継者としての育成にも力を注ぐ。

 その甲斐あって一昨年5月に事業継承を終え、自身は相談役に退くが、それまでの活躍ぶりや功績は社内外の誰もが知るところであり、炭本治孝会長は池田氏を「ニューエイジの中興の祖である」と賛辞してはばからない。

 いまニューエイジは、主要顧客の一角であるCATの相模事業所(神奈川県)での生産撤退と工場閉鎖による受注減への対応を経営課題に置きつつ、若きトップを軸に社業の永続・発展始めたはじめた。昨年夏には弟の修吾氏を迎え、現場のノウハウを学ぶべく千葉工場でベテラン大番頭の小林久夫常務の指南を受けている。

 今後も幾多の苦難は訪れるだろうが、そのたびに壁を乗り越え、危機を脱しながらオーナー企業として独立自尊の道を突き進むDNAが備わっていることは、これまでの歩みを振り返れば明らかだ。それを改めて確認する場が、きょう4月10日に都内で設けられている。ここには社員一同のほか仕入れ先や需要家ら取引先など関係者が集い、設立50年の新たな門出を祝す。(太田 一郎)

インタビュー/炭本治孝会長/炭本英治郎社長

「選ばれる会社」づくりに精励

炭本会長「縁と運に恵まれて」/炭本社長「信頼、さらに強く」

――節目を迎えた心境から。

会長 「父・炭本英治が起業してから今日まで育ててくれた全ての方々にまずは感謝を申し上げます。うちの歴史を振り返るとき、私は常々『縁』『運』『タイミング』を感じます。父が京都から横浜に来た縁で鉄に携わり、その縁で土井鋼材さんと知り合い、厚板加工に導いて下さった。父は生前、よく『土井さんはうちの大恩人だ』と申しておりました。加藤製作所さんと取引させてもらえたのは『運』であり、そこからキャタピラー社さんともつながった。タイミングもよかった。『人』にも恵まれました。おかげ様という気持ちでいっぱいです」

――会長は草創期をご存じですよね。

会長 「父が営業と現場を切り盛りし、母が電話番をしながらソロバンを弾いていました。昔ながらの職住一体スタイルでしたから、家でもよく2人で仕事の話に明け暮れていたのを子供ながらに覚えています。夫婦二人三脚で協力しあい、叱咤激励しあっていたのが原点ですね」

――幾多の景気浮沈を経験し、厳しい時期もあったと思います。

会長 「バブルが崩壊し、消費税率引き上げ前の駆け込み特需とその後の反動不況、アジア通貨危機の頃が本当にしんどかった。関係者の助言で企業体制を再構築し、難局を乗り切ることができました。リーマンショック後の不況期も確かに厳しかったが、あの時の苦難を乗り越えた経験があったから『大丈夫』との自信はありました。もちろん、そのとき指揮を執っていた池田啓志社長(現相談役)への信頼もありましたから」

――その池田社長からバトンを受け継いだ炭本英治郎社長が舵取りして2年になります。

社長 「創業者の祖父、2代目の父そして池田前社長の背中をみて感じることは、お客様に真摯に向き合い、要望に応えようと真剣に取り組んだ姿勢です。その姿を信じて社員も頑張り、全社一丸で『お客様に選ばれる会社づくり』に精励した結果が今につながっています。この軸は、今後も変えてはならないと考えています」

――それを踏まえてこれからどう経営していきますか。

社長 「顧客ニーズを的確に把握し、それにいち早く、しかも丁寧に対応することで『ニューエイジの存在価値』を認めてもらう。これに尽きます。言い換えれば、ライバルに負けない品質・納期・価格競争力を身につけるために、営業、事務、工場における人材教育とスキルアップを怠らず、ソフト&ハード両面で必要な投資を継続することですね(2面参照)。前社長の付加価値路線を踏襲し、これまでに築いた信頼をさらに磨いていきます」

――世の中の変化は速度を増しています。

社長 「だからこそ外部環境の変化に左右されにくい企業体質づくりに励みます。昨今は『働き方改革』に代表されるように、特にモノづくりに携わるわれわれのような中小企業は経営者が意識を変え、これまでの常識観や商慣習などを見直す必要性も出てきました。お客様にとって必要な存在であるとともに社員にとって働き甲斐のある会社にすることが、社会にも認められるということだと思います。技術革新の進化も速く、ちょっと油断するとすぐに置き去りにされます。オーナー企業である独立性を強みとし、柔軟で機動力のある『ニューエイジならではの現場力』を確立し、発揮してまいります」

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