巨人史を”変えた”ドラフト 好打者・篠塚和典氏が振り返る1位指名の“真実“

巨人OB・篠塚和典氏【写真:編集部】

巨人史上屈指の巧打者が名場面を振り返る連載がスタート、長嶋監督との深い絆とは…

 読売巨人軍の長い歴史を語る上で、欠かすことの出来ない人物だろう。篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)。現役時代には類まれな野球センスで活躍し、高い打撃技術で安打を量産。通算1696安打と名球会入りはならなかったにもかかわらず、史上屈指の巧打者として、その名前はファンの脳裏に深く刻まれている。

 Full-Countでは、天才打者が現役時代の名場面を振り返る連載「篠塚和典、あの時」を掲載する。第1回は「プロ入り」。前後編にわたり、長嶋茂雄巨人終身名誉監督との深い絆について、あらためて振り返る。

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 名門球団の歴史上で大きな決断だった。1975年のドラフト会議。巨人は銚子商業高校の強打者として、2年時には全国制覇にも貢献していた篠塚氏を指名した。1年前の甲子園を沸かせていたとはいえ、その後は湿性肋膜炎にかかるなど体力面に不安があると見られていたが、1位指名は篠塚氏の打撃センスに惚れ込んでいた長嶋監督の強い希望だった。

 実は、篠塚氏自身もプロ入りは考えていなかったという。「今の自分の体力で(プロの)練習についていけるかが一番不安でした。だから、アマチュアの日本石油に行くことが決まっていたんです」。実際に日本石油の合宿所に行き、練習も見学した。気持ちは固まっていたが、そんな状況の中で、巨人が自分をドラフトで指名する方針だと伝え聞いた。

 当初、銚子商業の斉藤一之監督(当時)からは「お前、プロ野球で好きなところどこだ?」と聞かれ、元々ファンだった阪神に加えて巨人、中日の名前を挙げていたという篠塚氏。「そういう話をしていたら、巨人から連絡があって。ドキドキですよね」。ただ、最初の感情は、やはり「不安」だった。

「やっぱりジャイアンツの練習はきついというのがあったから。『ついていけないよ』と。私は『巨人の星』で育っていますから。合宿所から多摩川までバスの中でつま先立ちしていくとか(笑)。でも、その前から、あれだけの伝統のあるチームだから、強くなるにはやっぱり練習がきついというのは当然のことだと考えていました」

 長嶋監督が獲得を熱望していることも、1位で指名する方針であることも、実は知らなかった。

長嶋監督はなぜ篠塚氏の1位指名を強烈にプッシュしたのか

「ジャイアンツが指名すると言っても、長嶋監督がどうだというのは全然頭になかったんですよ、そのときは。球団が獲りたいんだと思っていました。あと、巨人は7番クジでしたし、どうなるかなという不安はありました。もちろん、斉藤監督には『行く気はあるか?』ということを言われたし、『それはジャイアンツさんが獲ってくれるなら』という話もしていました。でも、1位というのも私は聞いていませんでしたから。ただ、『巨人がお前を獲るよ』という話があって」

 そして、訪れた運命の日。巨人は篠塚氏を1位で指名した。「あまりドラフト1位というのは自分でも意識がなかったから、まさかという感じでした」。驚き、喜び。一方で、不安も持ち続けていた。ただ、それを消してくれたのが、長嶋監督の言葉だった。

「まさかの1位で指名してくれた。それでも不安は不安でした。でも、ミスターが銚子に来て、そういう話(不安)を伝えたときに『3年間はじっくり体を鍛えるから』と言われてホッとしたんです。やっぱりドラフト1位となると、その当時でも即戦力という気持ちになってしまう。その年には中畑(清、同年に駒沢大からドラフト3位で入団)さんとか、大学の人たちもいた。その人たちを押し切って1位で指名してくれたという重みもすごく感じていました。ただ、(巨人に)入ってからも、何年かやってみて自分で判断しようと思っていたので、その中で3年間みっちり鍛えるという話を聞いてホッとしたんです」

 長嶋監督は、なぜそこまで篠塚氏を猛烈にプッシュしたのか。篠塚氏本人は「僕は(長嶋監督に)聞いたことはないんです」と明かす。

「(理由を)聞いて逆に意識しすぎちゃうのも嫌だったので。でも、中畑さんなんかはユニホームを脱いでから、聞いたりしていましたよ。『ミスターはシノのどこが良くて獲ったんですか?』と。ドラフトの話もメンバーでよくしたりするんですよ。中畑さんは『なんで俺が3位なんだ?』って(笑)。『入ってきたときは本当にヒョロヒョロで、本当にこいつ野球が出来るのかと思った。こんなやつに負けて俺は3位なのか』と(笑)。でも、『後々わかった』と言ってました(笑)。私は絶対にノックとかでは負けなかったので、体力的にも。だから、中畑さんは『俺はお前とはノックは受けたくない』と言ってましたよ(笑)。

 ただ、ミスターは、甲子園のときの2打席を見て決めたと。球の捉え方、グラブさばき、それが印象に残っていたそうです。あと、絶対にハートも強そうだと。自分ではそんな風に思ったことないんですけどね。(長嶋監督は)『俺はその時に本当にくるんだ』と。『くるものがあるんだ』と。角(盈男)さんを横投げにしたり、松本(匡史)さんをスイッチヒッターにしたり、その時にポンポンと(アイデアが)出るらしいんですよ」

過渡期を迎えた巨人「俺たちで大丈夫なのかな」

 篠塚氏が入団した1976年は、巨人の過渡期。1965年から1973年までV9を達成した直後で、1974年に長嶋氏が引退して監督に就任するなど、黄金期メンバーからの世代交代が始まっていた。当時のチームの雰囲気を、篠塚氏はこう振り返る。

「ミスターがいなくなって、その後に王(貞治)さんが高田(繁)さん、柴田(勲)さんとかいたから、まだよかったんですけど、王さんが(1980年に)引退したときというのは『この後、ジャイアンツ大丈夫なのかな』『俺たちで大丈夫なのかな』となりましたよ。V9というのはやっぱり恐ろしい成績ですよね。脇役もしっかりした人たちがいたからできたこと。その後にも、王さん、長嶋さんのような選手が一人でもいればよかったのですが…」

 ただ、1980年代の巨人も個性豊かな選手が揃い、球界の盟主として強さを維持した。

「でも、私たちのときは満遍なく選手がいたというのもあると思います。飛び抜けて凄い選手がいたというわけではなく、首位打者を争う選手、ホームラン王を争う選手、盗塁を争う選手。タイトルを取れる選手がいたので、固まっていたというか、チームになった。個々の役割をみんなしっかり分かってやっていたような感じがします」

 その中で、天才的なバッティングと華麗な守備を武器に異彩を放っていたのが、篠塚氏だった。プロ野球選手として、そして読売巨人軍の選手として、確固たる地位を築く原動力となったのは、ドラフトで周囲の反対を押し切ってまで自身を1位指名してくれた長嶋監督への強い恩義だったという。(後編に続く)

(Full-Count編集部)

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