運命のドラフト1位指名から成功へ 篠塚和典氏を支えた長嶋監督の言葉

巨人OB・篠塚和典氏【写真:編集部】

巨人史上屈指の巧打者が名場面を振り返る連載、篠塚氏が巨人入団後に掴んだ自信とは…

 読売巨人軍の長い歴史の中で、屈指の好打者として絶大な人気を誇った篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)。現役時代には高い打撃技術で安打を量産。抜群の野球センスを誇り、二塁の華麗な守備でも球場を沸かせた。その名前はファンの脳裏に深く刻まれている。

 Full-Countでは、天才打者が現役時代の名場面を振り返る連載「篠塚和典、あの時」を掲載中。第1回は「プロ入り」。後編では、長嶋茂雄巨人終身名誉監督との深い絆について語ってもらった。

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 プロ入り当初は巨人の厳しい練習についていけるか、ドラ1として“即戦力”の期待に応えられるか、不安な気持ちもあったという篠塚氏。しかし、ドラフト後に長嶋監督から「3年間はじっくり体を鍛えるから」と説明を受け、「ホッとした」と振り返る。実際にルーキーイヤーのキャンプがスタートしてからも、その印象は変わらなかったのか。実は、高卒1年目のルーキーの中には、早々に自信も芽生えていたという。

「やっぱりボールを飛ばすことに関しては、みんな凄いなと思いましたよ。体もしっかりしているし、大きい人もいるし。自分は高校のときはある程度、長打を打ってきたけど(飛距離は)敵わないなと思いましたね。それを思ってやっていたら残れないなと思って。そこで、『じゃあ、人より多くヒットを打っていけば可能性があるかな』と感じました」

“好打者・篠塚”は、自分が生きるべき道を探し出し、歩み始めることになる。

「他のバッターを見ていても、あまり綺麗にいろんな所に打つバッターはいなかったから。自分は藤田平(阪神)さんを見てきていたので。ああいう風に流す打ち方とか、力感なく、来たところにポーン、ポーンと(ボールを)自由に扱っているような柔らかいバッティングというのは、やっぱりファームの中にもいなかったですよ。自分もそういうバッターを目指していたので、そういうバッティングをしたら目立つんじゃないかなというのもあった。試合じゃなくて、練習から自分の思っているところにカンカン打つように、インサイドの球でも反対方向に打ったりとか、外の球を引っ張ったりとか。見る人が見ていれば、プロのコーチ、監督だから、そういう姿勢を見せれば、目に留まるんじゃないかなと思ったんです」

「何とか恩返しを―」ドラフト1位指名を“強行”した長嶋監督への思い

 同時に、体力作りにも重点を置いた。巨人の練習はキツいという印象から不安はあったものの、体力そのものには決して自信がなかったわけではない。ただ、湿性肋膜炎を患ったこともあり、プロでのシーズンを乗り切れるかとなると、課題を感じていた。

「やっぱり細かったし、体力をつけていかないといけない。体力的には自信はあったんですよ。ただ、体調を崩していたのもあったし、アマチュアとは違ってシーズンは長いし、1年間を戦う体力をつけないといけない。そういう感じで1、2、3年目と過ごして、ファームの試合をやりながら1軍の試合に行ったりして、3、4年目くらいからは何とか行けそうだなというような時に(1979年の)伊東キャンプがあったんですよ。そこであれだけ練習したということで自分の中でも自信がついて。体力的にも強化できたし、1980年シーズンが終わったところで『よし来年!』となりました」

 ところが、ここで思わぬ事態となる。1980年限りで長嶋監督が退任。これに最も心を痛めた一人が篠塚氏だった。そして、プロでの成功をさらに強く誓うことになる。

「1つ果たせなかったというか……。実は、僕はジャイアンツに入って半年くらいして、ドラフトの話を聞いたんですよ。長嶋さん1人が『俺が責任を取るから、篠塚を獲る』と言っていたと。他の人はみんな反対していたらしい。だから、それだけがものすごく心残りというか、一緒にやっている間に恩返しできなかった。恥をかかせちゃったな、というのがあって。世代が変わっても、監督が変わっても、長嶋監督に教わってきて、何とか恩返しがしたというのがずっと頭にあった」

 1981年、篠塚氏は自信を持ってシーズンに臨んだが、開幕当初はセカンドのポジションを新人の原辰徳氏に奪われる形に。のちに中畑氏が負傷し、原氏がサードに回ったことで、篠塚氏がセカンドのレギュラーに戻る形になった。中畑氏が復帰後はファーストに入り、その後の巨人の“形”ができあがった年でもあったが、開幕直後にポジションを奪われた篠塚氏に対して、長嶋監督からすぐに連絡が来たという。

周囲の見方を変えた1981年「『やっぱり篠塚は外せない』と思わせた」

「色んなことを経験して、『さあいこう』という時に弾き出される形になりました。でも、そのときもミスターから電話がきて『腐るなよ』『チャンスは絶対にあるから』と。『だから、しっかりした練習をやっておけ』と言われたんです。実際にその1か月くらい後にチャンスが来ました」

 篠塚氏のプロ野球人生において、節目節目には必ず長嶋監督の存在があった。ドラフト1位で指名し、そして、育て上げてくれた。その恩があったからこそ、篠塚氏は長嶋さんの期待に応えたい、長嶋さんの顔に泥は塗れない、という思いでキャリア序盤を過ごした。

「ずっとですね、それは。何とか恩返ししたい、と。あの時、反対した連中に『俺を取って間違いなかった』と言わせたかった。そのきっかけが81年ですよね。バッターとしては最低3割を3年打てば周りから認められる、というのが第一目標だったので。81年からそれをやって。でも、それではまだ恩返しはしてない。じゃあ、タイトルを獲ったら恩返しになるだろう。そういう思いで結局、その次の年(84年)に首位打者を獲って、これでやっと長嶋さんに少し恩返しできたなと。81、82、83年というのはある意味必死で、3割は絶対打つという。それだけでしたね。何が何でも3割は打つ、首位打者というのは頭になかった。

 だから、81年に藤田さんと争ったときは、周りの人が惜しかったとか、いろいろ言ったけど、もしあれで首位打者を獲っちゃったら、その後にああいう成績を残せたかは分からない。首位打者を獲るなんて頭にも全くなかったし。あれだけの数字(打率.357)を残して、最終的に首位打者を争うという流れの中に入れたけど、でも、『藤田さんが獲ってくれ』と思っていました。なぜなら、1年やって、すごく自信になったので、気持ちの中では『この後2、3回は(首位打者を)獲れるだろうと思ったんです。だから、本当に獲れなかったことが良かったかもしれない。悔しさは全然なかったですね。ああやって前の年に『よし次の年はセカンドで行こう』と思ったら、いきなり控えに回っちゃったし、またそういう可能性もあると思っていたけど、『やっぱり篠塚は外せない。残そう』と思わせた81年だったのではないかと思うんです」

 長嶋監督への恩返しを目標に始まった野球人生。その後、球史に名を刻む好打者となった篠塚氏は、数々の伝説を残していくことになる。

(細野能功 / Yoshinori Hosono)

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