メクル第268号 「やりたいこと」言葉に出す 車いす陸上で東京パラ目指す 副島正純さん 

 全国や世界の舞台(ぶたい)で活躍(かつやく)している長崎ゆかりの人が、みんなへメッセージをとどける「キャッチ the ボイス」。第1回は、車いす陸上の副島正純(そえじままさずみ)さん(ソシオSOEJIMA(そえじま))です。パラリンピックに2004年のアテネから4大会連続で出場し、メダルも手にしました。2年後の東京パラリンピックも目指している47歳(さい)の現役(げんえき)アスリートに、メッセージをもらいました。

 昨年12月、ハワイであった「ホノルルマラソン」車いすの部で5連覇(れんぱ)しました。優勝(ゆうしょう)は11度目だけど何度でも勝ちたい。47歳(さい)で世界にいどめるのは楽しいです。それを教えてくれたのは車いすでした。

2月の東京マラソンに出場した副島さん。車いす陸上が世界と戦う楽しさを教えてくれた

 小中学生の時は勉強が好きじゃなかった。スポーツが大好きで、剣道(けんどう)をしていました。高校をやめて働き、10代で「自分のために自分でかせぐ」ということを覚えました。

 父の後をつごうと23歳で仕事場があった県外から諫早(いさはや)に帰り、家業の鉄工所で働いていた時のこと。自分の不注意で、重さ300キロの鉄板の下じきに。22センチほどのすき間があり、命は助かりましたが、下半身が動かなくなりました。

 車いす生活になり、「何でおれがこんな思いをしなきゃいけないんだ」と思っていました。そうした中、車いすで、さらに左うでを失った子と知り合いました。その子のすがたに「がんばっている人はいる。自分は上半身全部動くのに…」と感じるようになりました。

 陸上との出合いは、友人にさそわれて行った車いす24時間リレーのイベントでした。陸上用の車いす、さっそうと走る先輩(せんぱい)たち。その迫力(はくりょく)やスピード感がすごくて自分も始めました。

 オーストラリアのシドニーであった2000年のパラリンピックで、知り合いがメダルを取ったすがたに「自分もやらなきゃ」と。仕事や練習環境(かんきょう)を見直し、走りまくった。結果を残したい、みんなに見てほしい。その一心で4年後のアテネ大会(ギリシャ)の出場権(しゅつじょうけん)をつかみ、1600メートルリレーで銅(どう)メダルを取りました。

 その後も北京(ペキン)(中国)、ロンドン(イギリス)、リオデジャネイロ(ブラジル)と連続でパラリンピックの車いすマラソンに出ています。車いすなので、人が走るよりも断然(だんぜん)、スピードが速い。42・195キロと長い距離(きょり)の中で「どこかでひっくり返せるんじゃないか」と、あきらめない気持ちも生まれます。

「車いすだからどうじゃなくて、自分が何をやりたいかが大事」と話す副島さん=諫早市内

 障害者(しょうがいしゃ)になった時、はじめはそれを自分で受け入れられなくて、周囲の人にどう見られているのかも気になりました。でも、やりたいこと、そしてパラリンピックという目標を見つけ、「どう思われようと自分らしく、持っているものすべてをかけてやろう」と思うことができました。

 当時、車いすマラソンはだれも知りませんでしたが、自分ががんばることで周りがみとめてくれました。生きることに不安だった自分が、今は走ることが大好きになり、応援(おうえん)されるようになったのです。

 車いすになって気付くことができましたが、たとえそうじゃなくても「自分が何をやりたいか」だと思います。また、それを言葉にすることも大事です。
 宣言(せんげん)します。2020年、50歳になる年に東京パラリンピックに出て、まだかなえていない夢(ゆめ)、金メダルを取る。そのための努力を、死ぬ気でやることが一番の目標です。

【プロフィル】1970年8月31日生まれ。諫早(いさはや)市小豆崎(あずきざき)町出身。長田小-長田中。2004年のアテネパラリンピックに出場し、1600メートルリレーで銅(どう)メダルを獲得(かくとく)。車いすマラソンで北京(ペキン)12位、ロンドン4位、リオデジャネイロ11位。13年、車いすアスリートクラブの「ソシオSOEJIMA(そえじま)」を設立(せつりつ)した。

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