『ふたりみち』山本幸久著 オーバー60と小学生が旅に出る

 主人公の「ゆかり」は67歳。かつてムード歌手だったけれど、特にヒット曲がはじけることもなく、今は小さいスナックを営んでいる。けれど日本中に散らばる昔のツテをたどって、キャリーバッグひとつで単身「復活コンサートツアー」に出ることに。彼女の胸には「どうせ私なんかが」と「このまま終わりたくはない」が同じぐらいあって、綱引きをしている。

 その旅路、フェリーの上で出会った、12歳の家出娘の名前は「縁(ゆかり)」。ほんの少しの会話で「ゆかり」に興味を持ち、彼女の旅路についてきてしまう。

 そこからの、二人の不運っぷりが洒落にならない。ホールもギャラもすべて段取ってくれていたはずの人物が、実は認知症で夢と現実の区別がついていなかったり、共演する予定のイケメン歌手のストーカーに、衣装も出番も乗っ取られたり、とにかく行く先々で、歌うことが叶わないのだ。散々な目に遭って、ぼろぼろなはずの二人の「ユカリ」たちは、しかし、なんだか少しずつ再生していく。

 なんの間違いか、紛れ込んでしまったライブハウスで、「ゆかり」のレパートリーの中で鉄板中の鉄板「イムヌ・ア・ラムール(愛の讃歌)』を歌う。彼女の原点となるその歌に、ラップバトルを聞きに来たはずの聴衆が静まり返る。母に言いつけられた、厳しすぎるピアノのレッスンに辟易していた「縁」は、旅先で出会った子どもに「トトロ」を弾いてあげたり、「ゆかり」の歌の伴奏をすることで生き生きと蘇る。

 それぞれの地方で、かつて良くしてくれていた人たちの「老い」も、丁寧に描かれる。つい先日のことだと思っていたけど、もう20年やら30年前のことなのだと思い知る、「ゆかり」の心情描写が切なく胸に迫る。

 次第に、「ゆかり」の過去が明らかになっていく。ただ歌ってただけではない。「ただ歌う」ために、ただ事じゃない悲しみを、彼女は経ていた。産んだ子どもを人に託す悲しみ。成長したその子どもの死を知らされる悲しみ。

 人は年をとるごとに、「終わる」「途絶える」と無縁ではいられない。自分の人生は続いていても、あの人のそれは終わっていたり、この人との関係が途絶えていたりして、その無常感にただ立ち尽くすのみだ。そして、それでもなお、終わらない日々を重ねていくしかない。だったら、どう生きるか。——「どう生きるか」は若者だけの悩みではない。むしろ年齢を重ねたその先にこそ、山のように、どすんと、居座っている問いなのだろう。

(KADOKAWA 1600円+税)=小川志津子

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