彼らは、自分に幸せを禁じながら生きている。
東京から来たデザイナーの宮澤に、骨抜きにされてしまった日奈。
一途に愛してきた日奈に、あなたの愛情が息苦しいのだと、フラれてしまった海斗。
やがてそれぞれが別の恋人を得て、それぞれに愛し、愛されながら、でも彼らはどこかで愛が息苦しくて、結局拒んだり倦んだり手放したりしてしまう。彼らは一様に、自分に何かを禁じているように見える。言いたいのに言えない言葉。聞きたいのに聞けない問い。それらがどんよりと重たい雨雲みたいに、彼らの心を占めている。
日奈が格闘しているのは、ひとりで生きる人生を覚悟するというハードルだ。そばに恋人がいようといまいと、彼女はいつも孤独を飼っている。物語中盤、祖父と暮らしていた家を売って、幾ばくかのお金を手にした日奈は、働いて得るお金を生活費に回し、このお金は取っておこうと決める。ひとりで、生きていくために。いつか働けなくなる日のために。
「ひとりで生きていく」をこじらせると、実にやっかいなことになる。愛していると言われても、それを信じることができない。差し伸べられた手を、素直につかめない。その手をつかんだところで、いつ振りほどかれるかわからないからだ。そして、ひとたび振りほどかれたら、嘆かず、黙って、粛々と手のひらをポケットにしまうことしか、生きる術を知らない。
日奈と海斗はそれぞれ、高齢者介護施設で働いている。「生きる」と「死ぬ」の狭間にいる人たちと、日常的に接することの困難に、彼らは日々、直面している。その困難を声高に訴えるわけでも、自虐的に悪ぶるわけでもなく、ただ、それそのものとして、日々は重ねられていく。
「それそのもの」。本書を貫くキーワードであるように思う。彼らは限りなく正直なのだ。すごく愛してると思っていたけど、どうにも息苦しくなってしまったり。こんなに愛したのになんで応えてくれないんだと、相手を恨みながらも、その答えを実は自分が一番知っていたり。そういうときに彼らは「ま、それはひとまず置いといて」ができない。人生がうつり変わりゆくにつれて起きる、自分の心の中のさざ波を、彼らは見過ごすことができない。ああ、生きづらい。人生の機微に知覚過敏な人間にとって、恋愛も人生も、実にハードだ。
でも、うつり変わりながら、ずたぼろになっても、寄り添おうとする。それもまだ、人間の姿、そのものなのだろう。
(幻冬舎 1400円+税)=小川志津子