『わたしの忘れ物』乾ルカ著 「忘れる」と「忘れない」の狭間で

 冒頭、主人公の女子大生は、何の用があったんだか思い出せないまま、大学の学生課を訪れる。そこにいた職員に、有無を言わさずアルバイトを紹介され、そこへ勤めてみることにする。

 「有無を言わさず」というか、「有無を言えない」女性である。芸能界にスカウトされてモデルとして活躍している親友と、自分とを比べて「どうせ私なんか」の穴に落ちてしまっている。

 紹介されたのは、商業施設の忘れ物センター。日々届けられる大小の忘れ物を管理し、取りに来る人が現れれば、確認事項を踏まえて返す。私はなぜここに来たんだろう、と主人公はまたしても、腑に落ちずにいる。

 様々な人と忘れ物が押し寄せる。どこからどう見ても「キーホルダー」なのだけれど、大切にしている人間にとっては、そうではない代物。弟が初任給で買ってきてくれた手袋を、いつぶりだかわからないぐらいぶりに、取り戻しに来た男。何かを忘れたのだけれど、何を忘れたのだかを忘れてしまった老人。——そう、この物語が光を当てるのは、「忘れ物」そのものではなく、「忘れてしまった人」の人間ドラマだ。

 正規職員の水樹と橋野は、気になる忘れ物があると、推理合戦を始める。上司であり女性である水樹は、たいがいのことを見抜いている。見抜いているのに、わざと言わないで、様子を見守っていたりする。最初は立ち入らないようにしようとしていた主人公・恵麻も、だんだん、いろいろなことに気づいて、発言するようになる。ちょっとずつ居場所を得て、ちょっとずつ「一員」になっていく恵麻。

 恵麻が発言すると、水樹と橋野が、それを温かく見つめる。うながす。大人たちのそんな対応が、ぎゅうっと固まった恵麻の心を少しずつ開いていく。誰にも言えないこの気持ちを、どうしてこの二人になら話せるんだろう。首を傾げながらも、恵麻はその短期バイトの最終日を迎える。ひと月と、20日弱。ここで読者はようやく悟る。恵麻が、いったい何者なのかを。

 はたから見たらただのがらくたでも、誰かからしたら宝物だったりする。その様を見て、恵麻も、親友への屈折した気持ちをほどいていく。物は、持ち主から「要らない」とされたら終わりだけれど、人と人は、片方が「要らない」と思っても、もう片方がそうでなければ、絆は続く。見つめるべきは、自分の事情ではない。相手の思い、ただそれのみだ。

(東京創元社 1700円+税)=小川志津子

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