東芝とバスケ部の68年 栄光の果てに(1)承継

 それは青天の霹靂(へきれき)ではなかった。プロバスケットボール(Bリーグ)・川崎ブレイブサンダースの運営会社社長、荒木雅己にとって、心の奥底では覚悟していたことだった。

 創部から68年。総合電機メーカー・東芝の下で歴史を重ねてきたチームは2017年12月、プロ野球の横浜DeNAベイスターズの親会社で、IT大手のディー・エヌ・エー(DeNA)への承継が決まった。

 10年に東芝のスポーツ活動全般を統括するスポーツ推進室室長に就いた荒木。野球、ラグビーとともに強化してきたのがバスケットボールだった。「どれだけ強く、活性化していようとも、会社の業績悪化で存続の危機に陥る」。野球部が休部になっている日産自動車などを目の当たりにしてきた。親会社の経営状態に、いや応なしに左右される「企業スポーツ」。危機感は常にあった。

 東芝は15年に不正会計問題が発覚。その後も原発事業での巨額損失が明らかになった。事業売却などで経営再建の局面に入り、ブレイブサンダースにも影響が及ぶのは「想定外」ではなかった。

 16年のBリーグ参入を巡っても議論があった。強豪とはいえ、ショービジネスには無縁。プロへの移行期間も4カ月ほどに限られていた。ファンを集める目算は立たず、スポンサーの集め方も分からない。荒木は回顧する。「辞めたいと思ったことは何度もあった」。それでも、推進室はプロ化の準備を進めた。メンバーには横浜高校出身で、野球部監督の平馬淳らの姿もあった。まさに無我夢中で1年目のシーズン開幕を迎えていた。

 フロント、選手の奮闘ぶりは目覚ましかった。チームはリーグ最高勝率で中地区王者となり、チャンピオンシップ決勝まで進出した。惜しくも準優勝だったが、プロ化の前に比べ、1試合当たりの入場者数はおよそ2・4倍の約2400人に。ファンとの一体感や選手たちの振る舞いの変貌ぶりに、荒木の考えも百八十度変わっていった。「企業スポーツで稼ぐなんて、と思っていたが見直す時期が来たのかもしれない。もっと早く、プロ化にかじを切るべきだったかもしれない」

 17年9月に2年目のシーズンは始まったが、わずか3カ月後に経営陣はチームをDeNAに承継する決断を下した。「口を挟む余地なんてない。経営判断ですから。僕の使命はチームを永続させること。最悪の結末にならなくて良かった」

 同12月5日、荒木は選手たちを川崎市幸区の東芝小向体育館に集めて伝えた。「これで動揺しないでくれ。有終の美を飾ることが君たちの価値を上げることになるのだから」。シーズン真っただ中の異例の騒動にも、胸に「TOSHIBA」を掲げたプレーヤーはコートで躍動し、勝利を重ねた。2年連続でチャンピオンシップ出場を決めているチームは68年の重みを胸に、最後のストレートを走り切ろうとしている。 =敬称略

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 川崎に根を張り、栄光の歴史を紡いできた東芝バスケットボール部。名門の歩みと、未来像を関係者の思いをもとにつづる。

◆川崎ブレイブサンダース 1950年に東芝小向工場の同好会として創部。83年シーズンから日本リーグ1部に所属し、99年シーズンにリーグ戦と天皇杯を初制覇。これまでに国内トップリーグを4度、天皇杯を3度制した。2016年のBリーグ開幕でプロ化し、チーム名を「東芝ブレイブサンダース神奈川」から改めた。

ブレイブサンダースの東芝からDeNAへの承継が発表された記者会見。同チーム運営会社の荒木雅己社長(右端)は「廃部という最悪の事態は免れた」=2017年12月6日、川崎市内

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