日本オリンピックの父・講道館創設者、嘉納治五郎~その大いなる精神と実践~ 世界的スポーツに成長した柔道の祖にして哲学者

嘉納治五郎像(東京都文京区の講道館前、提供:高崎氏)

文武両道の人生

2020年東京オリンピック・パラリンピックを2年後に控えて、「日本オリンピックの父」であり講道館創設者として名高い嘉納治五郎(1860~1938)の高邁な精神と実践をあらためて考えてみたい。

嘉納治五郎の主な肩書を思いつくままに記してみよう。講道館柔道の創始者(師範)、教育者(学習院・第五高等中学(現熊本大学)・第一高等学校(現東京大学)・高等師範学校(東京教育大学を経て現筑波大学))の校長を歴任)、文部省高級官僚、日本初代(東洋で初の)国際オリンピック委員会(IOC)委員、大日本体育協会会長、貴族院議員…。

嘉納は幕末の1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)で父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれた。嘉納家は景勝地・御影における屈指の豪商であり、祖父の治作は酒造(灘の銘酒・菊正宗)・廻船業において成功し、知識人としても高名であった。その長女・定子に婿入りしたのが治五郎の父・治郎作(琵琶湖畔の日吉神社宮司子息)である。

治作は娘婿・治郎作に酒造業などを継がせようとしていたが、治郎作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行った。幕府の廻船方御用達を務め和田岬砲台の建造を請け負い、勝海舟ら有力幕臣への資金提供者ともなった。嘉納家が有力幕臣と深い交流があったこと(明治政府を牛耳る薩長藩にはあまり縁がなかったこと)は子息・治五郎の人生を考える上でも重要な要素である。ちなみに同じ嘉納家ではあるが、嘉納三家と呼ばれる現在の菊正宗酒造・白鶴酒造とは区別される(民芸研究家・宗教哲学者柳宗悦の母勝子は治五郎の姉である)。神戸市にある有名進学校・灘中高(旧灘中学)の創設には富豪嘉納家が大きくかかわっている。

1870年(明治3年)、明治政府に招聘された父に付いて上京し、帝都東京で書道や英語などを学んだ。上京前年に母を亡くしている。1874年(明治7年)、育英義塾(後の育英高校)に入塾した。その後、官立東京開成学校(現東京大学)に進学した。1877年(明治10年)に東京大学(当時)に入学した。また1878年(明治11年)には漢学塾二松學舍(現二松學舍大学)の塾生となる。洋学・漢学を同時に習得するのである。学習意欲が極めて旺盛と言わざるを得ない。

だが育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の学生に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていた。だが、親の反対により許されなかった(旧幕臣に近い彼は、旧薩長土肥藩出身の学生に「いじめられた」のかもしれない)。当時は文明開化・欧化主義の最中であり柔術は省みられなくなり、治五郎は師匠を探すのに苦労し柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。治五郎の若き「負けじ魂」である。

この時期の逸話がある。「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という。窮理の徒である治五郎らしいエピソードである。
              
1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて7月3日から来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に柔術を演武した。8月、福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元である磯正智に学ぶ。1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科を卒業したが、大学院に進み哲学などの研鑽に努める。教養人としても道を究める。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の乱捕技術を取捨選択し、「崩しの理論」などを確立して独自の「柔道」を創案する。

1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし段位制を取り入れ講道館を設立した。1883年(明治16年)10月、起倒流皆伝。治五郎は柔術のみならず剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。1905年(明治38年)、大日本武徳会から柔道範士号を授与される。

嘉納家の墓(千葉県松戸市の八柱霊園、提供:高崎氏)

嘉納と講道館柔道

「日本武道と東洋思想」(寒川恒夫)は嘉納柔道の本質を鋭く突いている。主な論点を引用してみる。

柔道は、武道の中の他種目と比べて、特異である。それは、柔道が嘉納治五郎という特定個人によって創造されたこと、そしてその体系が近代の武道概念(つまり中世や近世の武道概論とは異なる、20世紀に西久保弘道が構想した武道概念)の形成に先導的刺激を与えたこと、またその体系が、その後、武道他種目にも取り入れられ、それぞれの近代化を導いたこと、さらに、武道の中では最初に国際スポーツ化し、その成功が他の武道それにまた韓国や中国などアジアの武術の国際化を導くモデルになったこと、こうした点において、柔道は特異なのである。

そして、もう一つ特異なのは、近代の武道他種目が疑うことなく継承した近世の精神文化を嘉納は問題にし、その排除をもくろんだことである。

維新開国が突き付けた西洋思想との格闘は、かつて日本人の唯一の思想的拠り所であった儒仏道3学の相対化を促し、そしてそこから脱却を余儀なくされた明治の知識人が等しく経験したものであった。文化のさまざまの面において進行したこうした思想的脱皮の武術における表出を、我々は嘉納の柔道に見るのである。

柔道勝負法について、嘉納は次のように述べる。「柔道勝負法では勝負と申すことを狭い意味に用いまして人を殺そうと思えば殺すことが出来、傷めようと思えば傷めることが出来、捕らえようと思えば捕らえることが出来、また向こうより自分にそのことを仕掛けて参った時こちらではよくこれを防ぐことの出来る術の訓練を申します」。つまり柔道勝負法は、それまで行われていた戦時と平時における殺傷捕縛術としての柔道のことで、敵がこう攻めてくれば、こうかわして敵を投げ、当て、蹴り、間接を取るなどして制する一連の動き(形)をマスターすることに目的が置かれていた。

そして、これを身につけるには、一方を取り、他方を受けとして、約束的に全体をなぞる練習方法が取られた。江戸時代の柔術の諸流派は、それぞれ独自の形を(現実には多くの形が名称を違えて流派間で重複していたのだが)300以上も備えているのが普通であった。嘉納は、明治という新しい時代においてもなお、柔術の護身機能を評価して、これを勝負法の名のもとに存続せしめたのである。

嘉納流・柔道体育法は、これとは180度異なる狙いをもった。「筋肉を適当に発達させること身体を壮健にすること力を強うすること身体四肢の動きを自在にすること」、つまり柔道体育法は身体全体の調和のとれた育成を目指した。この目的を達成するためにはそのような運動がよいのか。全身的な動きと適切な運動量とを保証し、そして何よりも安全でなければならない。

江戸期の柔術をいかに体育目的に再編するか、嘉納の関心はこの一点に集中する。安全を保障して体育目的で行う柔術、嘉納の柔道体育法はこういってもよいものであるが、それはもはや柔術と呼べるものではない。嘉納は、安全を確保するために様々な工夫を編み出す。関節を痛めないで投げることが出来る「重心崩(くず)し」の原理、投げられた時に衝撃を和らげるための受身、体育目的を実現するための自然体の組み方による乱取り練習法などである。もちろん、これらは、柔術においても一部の流派で実施されていたが、それさえも殺傷捕縛という最終目的に組み込まれていたのであり、嘉納の言う体育目的はベクトルのらち外にあった。

嘉納の柔道体育法の真骨頂はまさにこの安全化にあり、ここに競技化も胚胎する。講演に先立って「日本文学」誌に寄せた「柔道およびその起源」の中で嘉納は、柔術の「発達進歩」も今日的段階というニュアンスで、「かくのごとくなるときは、すでに純粋の勝負術(殺傷術)たる性質を脱し、手練の軽妙を競うてこれを愉快とするに至れるものなりというべし」と述べている。
生命のやり取りをする武術の域を出た嘉納柔道の「競技宣言」といえる内容である。柔道を科学するのである。

嘉納が帰国途中に客死した氷川丸(横浜港、提供:高崎氏)

先駆的な教育改革者

嘉納治五郎は教育者としても獅子奮迅の活躍をした。1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)から通算約25年間(四半世紀間)も東京高等師範学校(現筑波大学、筑波大学キャンパス内に立像が建っている)の校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めた。高等師範校長として大学院を出たばかりの夏目漱石を英語教師として招いている。

旧制第五高等中学校(現・熊本大学)校長として小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を招聘した。この頃、旧熊本藩の体術師範だった星野九門(四天流柔術)とも交流している。

嘉納自身が柔道の根本精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)の設立にも関わった。英才の集う同校は柔道が必修科目であり、校歌には嘉納精神が歌われている。他にも、今日の日本女子大学の創立委員にも加わる。文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務した。彼は「教育が天職」と確信していた。

1882年には英語学校「弘文館」を南神保町に創立し、次いで1896年には清国からの中国人留学生の受け入れにも努め、留学生のために1899年に牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を開いた。柔道も指導した。後に文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した。魯迅の留学については2007年(平成19年)、中国国務院総理・温家宝が来日した際、温の国会演説でもとり挙げられた。嘉納は韓国の留学生も受け入れた。

1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館(現東洋大学)で講師となる。棚橋一郎とともに倫理学科目を担当し、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆した。1898年(明治31年)、全国の旧制中学の必修科目として柔道が採用された。

国際人、「幻の」東京オリンピック

日本の近代スポーツの道を開いた嘉納は、1909年(明治42年)にはフランスのクーベルタン男爵に懇望されて、東洋初のIOC委員となる。1911年(明治44年)に大日本体育協会(現日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年(大正元年)、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピックの招致に成功した。快挙である(嘉納の海外渡航は10回を超える。航空機のない当時としては異例な数字である)。遺憾なことに、戦争の激化により、オリンピック開催は返上に追い込まれる。

1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上、5月4日(横浜到着の2日前)日本郵船の大型客船氷川丸の船内で急性肺炎により急逝した。遺体は氷詰にして無言の帰国をした。享年77歳。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章が授与された。彼は終生講道館館長であった。終生柔道現役師範であった。墓は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園にある。鳥居を構えた楚々とした奥つ城である。

参考文献:「嘉納治五郎」(講道館)、「気概と行動の教育者 嘉納治五郎」(筑波大学出版会)、「日本武道と東洋思想」(寒川恒夫)、講道館刊行資料など

(つづく)

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