激動の半導体業界で半世紀 井嵜春生氏 イサハヤ電子会長兼社長 現役最古参「初志貫徹で夢つかめる」

 イサハヤ電子(諫早市)会長兼社長の井嵜春生氏は、浮き沈みの激しい半導体業界を半世紀生き抜いた現役最古参。大手メーカーから独立し、国内トップシェアの技術を誇る企業へ育てた。82歳となった今も陣頭指揮を執り、国内外を駆け回っている。

    設 立 

 長崎市出身。立命館大経済学部卒業後、理研光学工業(現在のリコー)に入社。31歳のころ、関連会社の経営を立て直したことが、取引のあった三菱電機の故喜連川(きつれがわ)隆氏(後の同社常務)の目に留まり、引き抜かれた。喜連川氏は同社の半導体製造の中心、北伊丹製作所長を務め、大口径アンテナの研究で日本の宇宙開発・衛星通信技術の発展に貢献した人物だ。
 当時の半導体は、人海戦術による労働集約型産業。井嵜氏は長崎県の中学校を回り、「三菱の名刺を出せば優秀な“金の卵”を集められた」。ここでも実績が認められ、喜連川氏からの次の指示は「長崎で工場を造れ」だった。
 義姉と親しかった諫早市助役を通じて故桟熊獅副知事に話が持ち込まれ、県の誘致企業第1号に。1973年、同市貝津町に前身の諫早電子工業を設立、三菱電機製としてトランジスタを作り始めた。
 高度成長期の鉄鋼に代わって、70年代は半導体が「産業の米」と呼ばれるようになった。石油危機で街のネオンが消え、電源を制御し電気消費量を抑える省エネ技術として急速に実用化した。80年代に入ると、テレビ普及の波に乗り自社でも増産を続けた。巨額の設備投資が必要だが、「三菱ブランドで金融機関も無条件で融資してくれた」と振り返る。
 現社名に変更後の2003年、三菱電機と日立製作所が半導体部門を統合し合弁会社(現在のルネサスエレクトロニクス)をつくるのを機に、独立した。「新会社の下に残るよう説得されたが、知らない日立と一緒にやるより、と熱意で押し切った」。それでも三菱電機は製品を使い続けてくれた。

    危 機 

 しかし「山高ければ谷深し」。それまで海外に生産・販売網を広げ「順風満帆、不眠不休」で操業していたのが一転、08年に金融危機リーマン・ショックが襲う。100億円の有利子負債を抱える「存亡の危機」にさらされたが、「企業は人」の信念で正社員雇用と採用を維持。「高い技術と評価があったからこそ耐え忍ぶことができた」。苦境でも取引をやめた大手家電メーカーはなかった。
 生産は全て海外に移したが、研究開発は諫早で担い続ける。世界と競う上で、機密保持が欠かせないからだ。大手とは違い、若者を即戦力として扱い意欲を引き出す。それが人材を送り出す大学側に評価された、とみる。「夢を見るなら誰でもできる。初志貫徹してこそ夢はつかめる」と現場に言い続けてきた。

    功 績 

 一時は世界シェア15%の生産数を目指したが、リーマン・ショックを機に薄利多売をやめた。今は高収益、従業員の高待遇にこだわり、離職率の低さに胸を張る。「突き詰めるほど技術は奥深い。私自身は不器用だが…」。高効率・低価格の小型電気自動車(EV)充電器がトヨタ車体に採用され、ものづくり日本大賞(九州経済産業局長賞)を受賞。個人の功績も認められ、今春の叙勲で旭日単光章を受けた。「10年たってようやく先が見えた」。理念が社内に浸透し、株式上場も視野に入るなど後進に経営を任せる見通しが立ったという。
 25年前、がんで胃を一部摘出して以来、宴席に顔を出すのは午後8時まで。毎晩9時半に就寝し、翌朝5時半に起きて歩き、スクワットを欠かさない。風邪もひかず、国内外を飛び回っている。「グローバルビジネスを遂行する上でアンテナは常に高く掲げていないとね」

◎ズーム/イサハヤ電子

 国内唯一のアナログ半導体専業メーカー。小信号トランジスタは全世界の販売額の約5%を占める(2016年度実績で自社調査)。諫早中核工業団地内に本社と研究開発拠点を構え、大阪、香港、米国、シンガポールに販売拠点、中国とフィリピンに生産拠点がある。資本金約4億8000万円。17年度の連結売上高129億円。連結従業員数約1400人。

「高い技術と評価があったからこそ耐え忍ぶことができた」と振り返る井嵜氏=諫早市津久葉町、イサハヤ電子

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