【特集】「超法規発言」から40年 今の時代に欠けた潔さ

栄誉礼を受け防衛庁を去った当時の栗栖弘臣統幕議長(上)=1978年7月、儀仗隊の前を歩くトランプ米大統領と安倍首相(下)=2017年11月

 引き際の潔さは語り草だ。自衛隊トップ、統合幕僚会議議長だった栗栖弘臣氏が「超法規発言」で事実上解任されたのは40年前の1978年7月25日だった。「敵の奇襲攻撃を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで手をこまねいている訳にはいかず、第一線の部隊指揮官が超法規行動に出ることはあり得る」とメディアに発言したことが問題となり、金丸信防衛庁長官(当時)に更迭された。辞める理由を記者から問われ、「長官の信を失ったからです。信任を失った以上、辞任することにしました」。シンプルな物言いに、ある種の覚悟がにじみ出ている。筆者はそれから20年余り後、栗栖氏に直接何度か取材した。40年という節目を、今の時代と比較して考えてみたい。(共同通信=柴田友明)

「法律書抱えて戦えない」

 以前、【特集】「QBつぶせ」で連想した「敵を殲滅せよ」で、ミグ25事件(1976年)を取り上げた。ソ連のミグ25戦闘機が北海道の函館空港に強行着陸した際、陸上自衛隊がソ連側の破壊工作を警戒して正式な命令がないまま「応戦」準備をしたという話だ。この流れで、法制上の「穴」の放置にしびれを切らせて、2年後に制服トップによる超法規発言があったとも考えられる。すでに、77年に福田赳夫首相(当時)の了承の下で、立法化を前提としない有事法制の研究が始まっていた。

 その後、集団的自衛権の行使を可能にした2015年の安全保障関連法成立まで法整備が進められたことは周知の通りだ。筆者が栗栖氏をインタビューしたのはその途中、有事関連法案が閣議決定した02年4月だった。

 意外にも栗栖氏はその法案に批判的だった。「あいまいで分かりにくい。本気になって考えたのだろうか…」。都内の喫茶店で理路整然と語り始めた元制服トップは当時82歳。話しぶりは50代に思えた。

 自衛官が反撃できる法案の条件が「事態に応じ合理的に必要と判断される限度において」と定義していることについて、栗栖氏は「修飾語が多く、何が言いたいのか。法律書を抱え、確認しながら戦うわけにはいかない」とばっさり切り捨てた。一線の指揮官の心情を代弁、安全保障と向き合っている姿勢は現役時代と同じではなかろうかと筆者には思えた。

原点語った元制服トップ

 1980年代半ばまで自衛隊トップの大半は、旧軍時代の陸軍士官学校、海軍兵学校などの出身者。しかし、栗栖氏は東大卒の内務省出身。警察予備隊時代に入隊した異色の経歴だ。筆者のさまざまな本題以外の質問に快く答えてくれた。

 自身の原点は、終戦後、連合軍に身柄を拘束されたインドネシアの戦犯収容所での経験と語った。法務担当の海軍士官だったことから戦犯裁判で弁護人を務め、多くの戦友の死と直面したという。

 「日本に軍隊が無くなったから、仕返しされ、こんな目に遭う。悔しい」。戦犯に問われ、過酷な扱いを受け、処刑された戦友の言葉はずっと耳に残っているという。「負けたらすべてゼロになる。戦争の被害は勝ってから国がしっかり補償すればいい」。

 退官後はタカ派の言論人としてならし、その言動は「制服組にも国会答弁の機会を与えるべきだ」「文官は部隊編成に口を挟むな。シビリアンコントロールにも限界があっていい」。

 正直、筆者は納得できないことも多かったが、自分の言動に真摯に向き合っている人物に思えた。

 ひとつ印象的に残ったのは、将来韓国と北朝鮮が統一された際、統一国家として核兵器を保持した場合に日本はどうすべきか具体的に選択肢を示して話していたことだ。その視座は常に未来にあったのかもしれない。

 栗栖氏は2004年7月19日、84歳で亡くなった。さまざまな問題に組織のトップの進退が話題にされるが、彼の潔さは今の時代に欠けたものかもしれない。

後任に引き継ぎをする栗栖議長=1978年7月

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