【特集】「遠い世界ではない」西野監督が語った、あの日 ミラクル勝利

今回のコロンビア戦の西野監督(左)と1996年アトランタ五輪でブラジルを破って会見した西野監督(右)

 勝利の歓喜に人は酔う。サッカーの門外漢でも、その道のりを知りたくなる。ワールドカップ(W杯)ロシア大会で日本が強豪コロンビアを破った19日、西野朗監督のさわやかな笑顔をテレビで見て、20年近く前に五輪取材で話を聞いたことを思い出した。まだW杯で1勝もしたことがない時代、「それほど遠い世界にいるとは思えない」と将来を見据えて語った監督の言葉が耳に残っている。(共同通信=柴田友明)

五輪への切符

 「ブラジルに勝った。すぐ街の声を拾ってこい」。1996年7月、アトランタ五輪で日本がブラジルに勝った「マイアミの奇跡」は社会部デスクからの電話で知った。警視庁丸の内署の記者クラブから有楽町まで走って行った記憶がある。当時、五輪代表を率いていたのが西野監督とは知らないほどの「サッカー音痴」記者だった。
 2000年のシドニー五輪を控えて、その前年から社会部五輪班の記者として1年間だけ各競技の取材をした。スポーツ専門の運動部と違って競技自体にこだわらず、アスリートや指導者たちの生き方などヒューマンストーリーを中心に素材を集め、記事化していくのが仕事だった。
 1999年11月6日、トルシエ監督率いる日本代表が東京・国立競技場でカザフスタン戦に逆転勝利して、シドニー五輪への切符を手にした時、筆者はあらかじめ約束していた時間に、西野監督(当時・柏レイソル)の自宅に電話を入れた。

「酷評」乗り越え

 今思い出すと、なぜあの時に監督の話を聞こうとしたのだろう。アトランタ五輪ではブラジルを破る快挙を成し遂げたが、決勝トーナメント進出を逃した。帰国後、日本サッカー協会(JFA)の技術委員会から出された報告書では「守備的なサッカーで将来につながらない」などと監督の采配が酷評されたこと。スポーツライター金子達仁氏の「28年目のハーフタイム」(97年、文芸春秋)では当時19歳だった中田英寿選手と西野監督がサッカー観で衝突したことが内幕として描かれていた。
 チーム内で意識の断絶に至ったいきさつが分かり、その後の西野監督の心境に筆者が関心を寄せていたからだと思う。前監督コメントとして社会面用の記事になったのは20行にも満たなかったが、素人記者にアトランタでのやりとりなど淡々と思いを語ってくれた。

コロンビア戦終了後、選手と喜ぶ西野監督

ハーフタイムの指示

 アトランタ五輪では西野監督の下でコーチを担った山本昌邦氏が「日本サッカー遺産 ワールドカップ出場舞台裏の歴史と戦略」(2009年、KKベストセラーズ)で当時の状況を綴っている。U―19世界選手権の予選からワールドユース、アトランタまで4年間、西野氏と二人三脚でチーム作りに取り組んできた山本氏の記述は興味深い。
 「日本は世界で戦える。世界との距離感を消し去り、日本サッカーに自信を与えた…日本サッカー協会の技術委員会から出された報告書は厳しい評価だった…『それはないだろう!』こみ上げる感情とともに、握り締めた拳を地面にたたきつける者がいた。しかしそこで西野監督は表情ひとつ変えず、『そうか』とだけつぶやいた。冷静沈着だった」。この文章には当時の山本氏の思いが詰まっている。
 「ハーフタイムは、指揮官が選手交代以外で唯一、チームにメッセージを送れる場である」。山本氏は著書でこうも述べている。W杯コロンビア戦での勝利を受けて、山本氏は20日朝の番組で「西野監督がハーフタイムで、やるべきことを整理して指示した。選手を萎縮させるよりも自信を持たせて試合に臨んだ」とコメントするのが心地よく感じられた。
 20年の月日を経て、五輪代表の指導者としての品格、自分を見失わない西野監督の“バネ”に注目していきたい。

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