【寄稿】潜伏キリシタンの普遍性 「オナジ」携え、風を読む/長崎純心大教授・古巣馨

 旅をすみかとする人は、風を読むのもまた習性である。1540年、ローマを後にしたフランシスコ・ザビエルは、途中ゴアやマラッカに滞在して風を待つこと9年、1549年鹿児島に上陸した。これが後に230年もの沈黙の旅を生きる潜伏キリシタンの始まりでもある。

 来日したザビエルは、鹿児島、平戸、山口、京都、豊後と宣教の旅を経て、いったんゴアに戻り、再度日本への帰路の旅で客死している。その使命と情熱は、同じ道をたどって来たあまたの宣教師とキリシタンによって、世界に類を見ない日本キリシタン史を紡いでいくことになる。

 1644年マンショ小西神父の殉教から、1873年明治政府によるキリシタン禁令高札撤去までを「潜伏キリシタン時代」と呼ぶ。1865年3月17日、大浦天主堂に出向いた浦上キリシタンが、パリ外国宣教会プティジャン神父に「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」と告げた。開国の扉の隙間に風を読み、命を懸けてささやいた人たちの出来事こそ、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の核になると捉えている。

 そのキーワードは「オナジ」である。寺請け制度、宗門改め、五人組制度、訴人報償制、踏絵(ふみえ)など、江戸幕府による禁教施策は尋常ではない。その中で、本当に「オナジ」信仰や教義が手渡されてきたのだろうか。

 「信徒発見の記録は実証的な学問の立場からはありえないこと、あれはプティジャン神父の創作である」という歴史家もいる。さらに、神道・仏教・儒教の三教一致をもって日本の神とした秀吉、家康の宗教観は、遠藤周作が言う「すべてをのみ込んでない交ぜにする日本の文化」そのものであり、潜伏キリシタンも伝統的な神仏信仰の上に、キリシタンの神と先祖も合わせて拝む民俗宗教に変容したとして、その混交こそ潜伏キリシタンの姿だとする学者もいる。筆者はそのいずれでもなく、信徒発見当時、ヨーロッパ社会を驚嘆させた長崎発信の「手渡されたオナジ」を支持したい。

 信徒発見の3年後、明治政府のキリシタン禁教政策により、金沢以西22カ所に配流(はいる)された浦上キリシタンの数は3394人、そのうち拷問や病のために662人が絶命している。「浦上四番崩れ」と言われる弾圧事件である。帰還した人たちはこの出来事を「旅」と呼んだ。ない交ぜになり変容した信仰ならば、命など懸ける必要はない。彼らにとって、それは沈黙の時代から連綿と手渡された「オナジを証しする旅」だった。創作や変容で語れない真実がそこにある。

 作家五木寛之氏は現代を「デラシネの時代」と評している。デラシネとはフランス語で「根なし草」。故郷や祖国から切り離され漂流する人から始まって、伝えるものを失くし確固たるものが見えなくなったあてのない時代をどう生きるのかを問うている。

 命を懸けて守るものを持っているとき、人は強くなれるのかもしれない。そんな人たちには秘訣(ひけつ)がある。絶えることのない教えと祈りに支えられた日々の暮らしが、潜伏キリシタンの伝える力を育んだ。小難しい教義ではなく、素朴に信じ、けなげに生きたことだけが手渡されていく。彼らにとって、祈りとは御利益の嘆願ではなく、点と点を結ばれる神に、この世の生きづらさを問い、静かに耳を傾け、そして風を読み決断することであった。

 一人で「オナジ」を生きることはできない。仲間を束ね、へたり込む者を背負う世話役がいて、もやい綱を何度も結び直しながら「オナジ希望」は保たれる。潜伏キリシタンは、あてのない旅を続けた根なし草ではなかった。旅の目的も連れ立ってゆく心得も知っている人たちであった。そして、時折吹くプネウマ(命の風)が、彼らのなえた心に触れたに違いない。これが、230年間「オナジ思い」が手渡されてきたゆえんだと理解している。

 デラシネの時代の申し子たちが、潜伏キリシタンの真実を創作や変容といっていぶかしがるのも無理はない。われわれは、彼らが携えて来たものをすでに手放してしまったのだから。

 世界文化遺産の認定要件の一つは、その出来事の普遍性である。230年もの沈黙の時代、「オナジ」を手渡してきた無名の人たちが、いまデラシネの時代を旅するわれわれの風になろうとしている。

【古巣馨/ふるす・かおる】1954年五島市生まれ。カトリック司祭。ローマ・ウルバノ大修士課程修了。専門は宗教学、キリシタン史、教会法。著書「まるちれす-子どものための教会史」「ユスト高山右近-いま、降りて行く人へ」など。長崎市在住。

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