【特集】犠牲者の生きた証し 記者が見た大阪北部地震(1)

地震で倒れたブロック塀を片付ける人たち(左)、避難所で新聞を読む被災者(右)=2018年6月19日、大阪府茨木市

 18日の大阪北部地震は発生から10日が過ぎた。震度6弱の揺れが大都市を直撃し、5人が死亡、400人超が負傷。住宅被害は4府県で1万棟を超える。現地で取材に奔走した新人記者2人が赤裸々にリポートする。

 十字を切るように揺れた

 6月18日午前7時58分。眠い目をこすりながら朝の情報番組の星座別運勢占いを楽しみに待っていた。いつもと変わらない朝。今日も警察回りから始めるか。そう思った矢先、突然揺れが始まった。部屋が十字を切るように揺れた。未だ経験したことのない大きな揺れ。テレビの地震速報を見ると、震度6弱を観測した高槻市は僕の担当エリアだ。「長い戦いになる」。直感で思った。

 即座に高槻方面へ向かうよう指示があり、タクシー会社へ電話をかけたが音信不通。近所のコンビニでゼリー飲料と水分を買い込んでカバンに詰めて自宅を出発した。いつ帰宅できるか分からなかったからだ。最寄り駅に出ても電車は全線運休し、復旧のめどは未定。目の前を客を乗せたタクシーが何台も通過する。

 1時間たってもつかまらない。現場に真っ先に駆けつけるべき僕が自宅の最寄り駅で足止めを食らっている。この現実が悔しくて、報道用の腕章を地面にたたきつけた。ただ、やるせなかった。

 10時前、やっとタクシーに乗車して現地へ向かった。車内のテレビは上空から倒壊した小学校のブロック塀の映像を流し、速報は女児の死亡を伝えていた。文字どおり「戦場」だと思った。

 11時すぎ、茨木市で男性死亡の一報が。それが後藤孟史さん=当時(85)=だった。自宅の本棚の下敷きになり、亡くなった。まもなくメールで回ってきた別の記者の取材メモで、後藤さんの人となりを読んだ時、不思議な親近感を覚えた。無類の本好き―。蔵書量はかなわないだろうが、私も本の虫なのだ。

 「出て行け」

 その晩、後藤さんの取材に加わる。後藤さんのマンションを最上階から1部屋ずつ訪ね歩く「ローラー作戦」を実行したが、さすがに後藤さん宅だけは呼び鈴を押せなかった。途中、マンション自治組合の理事という男性に遭遇した。「君は何者だね」と尋ねられたので「共同通信の記者です」と、正直に答えた。「出て行きなさい」と叱責され、エレベーターに無理やり押し込まれた。

 「君らマスコミももう少し住民の気持ちを考えたらどうなんや。人間のやることやないで」。理事の発言は正論に思えた。しかし、私たちは犠牲者の遺族の証言を取りに行くのが仕事。「申し訳なく思いますが、遺族の声や犠牲者の人となりを全国に伝えるのが私たちの仕事です」。精いっぱい反論したが、「では、君をつまみ出すのが私の仕事だ」と退去命令を受けた。返す言葉もなく撤収した。

 翌日も朝からマンションに通う。エントランスに「部外者立ち入り禁止」の張り紙。敷地外で待機していると、住民の男性から「あなたたちはこれ以上不幸が起きるのを楽しみにしているのか」と尋ねられた。同行の先輩記者が一生懸命説明して住民は納得してくれたようだったが、僕の気持ちは晴れなかった。

地震で倒壊した寺院の山門=2018年6月18日、大阪府茨木市

 「横顔」追い求め

 近所を取材中、後藤さんが数年前まで月1回通っていた理容店を知り、赴く。店の主人はすでに亡くなっていたが、奥さんが思い出を語ってくれた。月に1回、本を持参して来店していた後藤さん。謙虚で誰にでも平等に接していたという。

 奥さんはシャンプーとマッサージ担当で、後藤さんの頭に触れたときの指の感触を覚えているという。にわかには信じられなかったが、指で頭をもむ仕草をしてみせた。後藤さんを失った指は、感触を忘れずにせわしなく動いていた。「記者は泣いてはいけない」と勝手に思っていたが、涙をこらえきれなくなった。

 犠牲者の人となりを伝える原稿のスタイルを「横顔」という。後藤さんの横顔に関する情報は次第に集まっていたが、後藤さんの生きた証しをもっと深く知りたいと思った。その晩、記者クラブに戻り、被災状況の整理と報告に追われながら、遺族に手紙を書こうと思いついた。

 教員経験のある僕は、毎日学級通信を書いていた。生徒に個別で手紙を書いたこともある。この経験が生きた。パソコンで下書きし、便せんに清書し終えた頃、気付けば、サッカーW杯で日本代表の初戦は金星に終わっていた。すぐに後藤さん宅に向かい、ポストに手紙を投函。「返事はないだろう。読んでくれれば御の字だ」と思った。

 地震発生3日目。「名前しか知らないあなたに会いたい。生前の後藤さんの素顔を知りたい」。その一心で追い続ける。九州出身で有名大学卒、大手商社に勤務経験あり。わずかな情報をたよりに人物を探す。自分の出身高校の卒業生名簿を活用し、同じ商社に勤務する先輩に手当たり次第に電話をかけた。すでに亡くなっている人もいた。

 「やっと会えた」

 事態はその晩に一変した。応援に来ていた同期の記者が後藤さんの顔写真を取ってきた。先を越されたが、悔しいといった感情は不思議とない。「やっと会えた」という以上の感情は湧かなかった。後藤さんの顔は知性と優しさ、尊厳、そのすべてにあふれていた。生きている時に会いたかった。哲学や歴史の話をしただろう。でもそれは未来永劫に叶わない話だ。

 同期の記者が再び後藤さん宅を訪れたのは告別式の晩。取材と顔写真の提供は断られたものの、帰り際に後藤さんの長女が「手紙読みました。よく調べてましたね」と声をかけてくれたことを聞いた。せめてもの救いだった。(共同通信・大阪社会部=力丸将之 25歳)

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