【ルポ長崎】消えたキリシタン集落 山中に残る墓碑 山に返った 苦難の地

 キリスト教信仰が禁じられた江戸時代に、長崎県長崎市外海の潜伏キリシタンが移住した五島・久賀島の細石流(ざざれ)地区。戦後急速に過疎化が進み、約50年前にキリシタンの子孫たちが集落を去った。山中の集落跡には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の貴重な物証になるキリシタン墓碑が残る。細石流(ざざれ)の墓地や教会跡を訪ねた。

 五島・久賀島南西部の浜脇の港から、島の北西端を目指して狭い道を40分ほど走ると、細石流の美しい山と海が見えてきた。海辺に幾つか家があるが、人影は見当たらない。「山の上に貴重な墓地があるんだ」。五島市の委託でキリシタン墓碑の調査に来た大村市の石造物研究者、大石一久さん(65)が言った。

 長崎市外海の潜伏キリシタンは江戸後期以降、新天地を求めて五島の各地に移住した。細石流では、仏教徒が住んでいた海辺を避け、集落の外れや山に住み着いたという。市職員の案内で、生い茂った雑木の間を縫い、草を払いながら山の中に分け入った。

 山道を登り約20分。標高約80メートルの山頂付近にあるカトリック細石流墓地にたどり着いた。墓地は荒れ果て、細石流を去った人々が改葬して不要になった墓碑が端々にたくさん廃棄されている。

 墓地の奥に立つ高さ2・6メートルの石製の大十字架に雑草が絡み付いていた。裏側に「明治十七年二月下旬建立」と刻まれている。静寂の中、山ろくの海岸から聞こえる荒波の音が響く。

 墓地は信仰解禁後の明治期に造成されたが、江戸期の禁教令下でひそかに信仰を守り続けた潜伏キリシタンとして生き、幕末以降にカトリックに復帰してから亡くなった人々も埋葬されている。

 改葬されずに残っている墓が十数基ある。大十字架の右にある立派な六角形の墓碑が目を引いた。細石流の潜伏キリシタン組織の帳方(指導者)だった「ロレンソ畑田栄八」が眠る墓だった。

 ロレンソ畑田栄八は、長崎・浦上村の潜伏キリシタンが大浦天主堂でプティジャン神父と出会った「信徒発見」(1865年)を知り、危険を冒して長崎に出向いて神父と対面を果たした。後の迫害でも信仰を守り通した人物だ。

信徒がいなくなり、荒れ果てたカトリック細石流墓地=長崎県五島市猪之木町

  ■迫害を証明

 栄八の墓は2004年、大村市の石造物研究者、大石一久さん(65)率いる調査団が現存を確認した。大石さんは今回の調査で、栄八らの墓碑に刻まれた文字を紙に写し取った。

 墓地の隅に、改葬した「フランシスコ野濱力蔵」の墓碑が廃棄されていた。墓碑には「為天主教信仰 死於猿浦(さるがうら)獄中(キリスト教信仰のため猿浦の獄中で死す)」「日本明治元年一月七日死去」と刻まれている。

 「猿浦」は久賀島中央部にあり、現代では「牢屋の窄(さこ)」と呼ばれることが多い。明治初め、五島藩がわずか6坪の牢屋に乳幼児を含むカトリック信徒200人を8カ月にわたり閉じ込め、このうち42人が死亡した悲惨な迫害の現場だ。53歳の力蔵は、鉄の十手で叩かれたり、口の中に炭火を入れられたりと特に激しい拷問を受けて殉教した。

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の推薦書作成を支援した国際記念物遺跡会議(イコモス)のアドバイザーチームは昨春、牢屋の窄を視察し、強い関心を示したという。大石さんは「潜伏と迫害を示す世界遺産の物証だ」と言い、栄八と力蔵の墓碑を見詰めた。

「牢屋の窄」で殉教した野濱力蔵の墓碑=長崎県五島市猪之木町

  ■教会も崩壊

 一般的な教会では、キリストの受難を描いた14枚の「十字架の道行き」の絵を壁に飾っている。細石流(ざざれ)墓地を囲う石垣の上には、絵を模したとみられる14個の石碑が置かれている。大十字架がある奥部は一段高くしており、祭壇のように見える。墓地全体が教会内部のような造りだ。

 細石流(ざざれ)に教会堂が建設されたのは、墓地の造成から三十数年後の1921年だった。大石さんは「この墓地は教会が建つ以前に聖堂の役割を果たしていたのではないか」と推測する。「細石流墓地は類を見ない構造で、極めて文化的価値が高い。適切に保存し、できれば公開してほしい」と望んだ。

 細石流教会は、墓地と対面する山の頂上付近にあった美しい聖堂だった。教会建築の名手鉄川与助が工事を手掛け、信徒が浜から木材を担ぎ登って建設した。だが、信徒がいなくなった後の1969年に廃堂になった。

 墓地から道なき道を歩き20分余。教会を訪ねると、建物は完全に崩壊し、がれきが散乱していた。ルルドの泉は聖母像が取り外され、壁にぽっかり穴が空いていた。

 教会から少し下ると、地面に瓦がきれいに並べられている場所があり、民家の跡と気付いた。もはや家は全く残っていないが、山を切り開いて築いた段々畑の石垣が至る所で見られる。海を渡り、厳しい環境の中で隠れるように暮らして信仰をつないだ潜伏キリシタンの労苦が伝わってきた。

在りし日の細石流教会(畑田直純さん提供)
細石流教会跡。がれきに木が覆いかぶさっている=長崎県五島市猪之木町
昭和30年代ごろの細石流集落。段々畑が開け、山頂に墓地がある(畑田直純さん提供)

 ■生活できず

 五島・久賀島中央部の久賀町で商店を営むカトリック信徒の川端モニカさん(86)は細石流生まれ。細石流教会下にあった実家で小学校を卒業するまで暮らした。戦前の細石流は段々畑が開け、教会付近を中心に信徒の家が点在していたという。「どの家も8、9人の大家族だった。半農半漁で生活は貧しかったが、不自由だとは思わなかった」と懐かしむ。

 細石流(ざざれ)には昭和初期、約100人が住んでいた。だが、半農半漁の生活では徐々に暮らしが立ちゆかなくなった。1970年ごろにはカトリック集落から信徒が去り、先祖が苦労して開拓した新天地は山に返った。

 現在の細石流(ざざれ)は、昔から仏教徒が暮らしていた浜辺の集落にだけ人が住む。住民台帳には9人が登録されているが、「実際に住む人はまだ少ない」(市久賀島出張所)という。
 久賀島は東岸に重要文化財の「旧五輪教会堂」があり、細石流を含む島全域が「久賀島の集落」として潜伏キリシタン遺産の構成資産になっている。1950年の人口は3968人だったが、昭和30年代の高度成長期以降、若者が流出して急激に過疎化が進んだ。現在の人口は321人だ。

 「ここでは生活できん。子どもは中学校を卒業したら、みんな島を出て行く」。川端さんが寂しげに言う。

 潜伏キリシタン遺産の構成資産は12件。このうち8件が離島や半島部の集落だ。その大半で過疎化による人口減が進む。世界遺産になれば資産の集落を半永久的に保存しなければならない。もし、細石流のように人がいなくなれば、集落を維持して保存していくことが困難になる。

 潜伏キリシタン遺産が抱える課題を、信徒が姿を消した廃村が問い掛けているように思えた。

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