社会現象になるほど大ヒットしたゲーム機「スペースインベーダー」が今年、誕生から40年を迎えた。開発したタイトーのアドバイザー西角友宏さん(74)が東京都内で共同通信のインタビューに応じた。当初は「ピンクレディー」の曲にあやかった作品名になりかけたが、スペースインベーダーに差し替えられた秘話などを明らかにした。(共同通信=経済部・大塚圭一郎)
「ヒットは一過性」と思っていた
―1978年6月16日に発表された「スペースインベーダー」が40周年を迎えた。今年1月に東京・六本木ヒルズの展望台で展示会が開かれて来場者でにぎわい、人気の根強さを見せつけた。
「当初は、ヒットは一過性で終わると思っていたのでびっくりした。私はかつてそれほど重要視していなかったが、米国ニューヨーク近代美術館(MOMA)に収蔵され、自分が作ったスペースインベーダーがここまで頑張ったと改めて思った」
―根強い人気を集めてきた要因は何か。
「一つは誰でも遊べるのが特徴で、小さな子供でも理屈なく簡単に遊べる。もう一つの大きな特徴はプレーヤーが撃つ相手であるインベーダーも(ミサイルで)攻撃してくる点だ」
―宇宙人と対戦し、相手も攻撃してくるという当時としては斬新なゲームをどうやって考えついたのか。
「(米国のゲーム企業)アタリのボールをはじいてブロックを崩すゲーム『ブレイクアウト』で遊び、ひきつけられたのがきっかけになった。決められたターゲットをクリアした時の爽快感がすごかった。これをゲームとして発展できないかと思った」
―発展した形として考えついたのが、相手が撃ってくるシューティングゲームのスペースインベーダーだったということか。
「私はシューティングゲームがもともと好きだった。そこで、狙うターゲットを形にするとともに、相手も撃ってくるシューティングゲームにしようと思った」
インベーダーは「タコ型の火星人」
―プレーヤーが砲台を左右に動かしながら、襲来するインベーダーを攻撃して倒すという当時としては複雑なゲームを開発するのは大変だったのではないか。
「非常に苦労した。日本はマイクロコンピューター(マイコン)が使われる環境が限られていてゲームに入っておらず、マイコンの技術を習得するのに時間がかかった。インベーダーの動きに関連したプログラミングなど、技術的な問題にも悩まされた。進んでいた米国の技術を研究するために海外の文献などの資料を読みあさって克服し、約1年半かけて完成させた」
―標的となるインベーダーがどこかかわいげがあるのも人気の要因だが、あの造形をどうして考えついたのか。
「火星人はタコの形というのが、私が子供だった頃の定番だったからだ」
―ただ、登場当初の1人で遊ぶゲーム機を見ると、筐体に描かれたイラストがインベーダーの造形とは大きく異なる怖いキャラクターのイラストになっている。
「あのイラストは火星人というより、モンスターの絵だ。最初はゲームの名前を『スペースモンスター』と付けており、キャビネット(筐体)のイラストを手掛けたデザイナーは『モンスターの絵を描いた』と言っていた。最初のタイトルに付いていたモンスターの絵を描いたのだと思う。私はキャビネットのデザインにまであまり口出しをしなかった」
―画面に登場するインベーダーを縦5列、横11匹の計55匹にしたのはなぜか。
「インベーダーの大きさのバランスで決めた。(インベーダーが)あまりにも多いと横に動く隙間がなくなってしまうので、最初の段階でバランスに基づいて配列を決めた」
―プレーヤーが動かす砲台が下に隠れることができるように、要塞を設けたのも当初の設計通りか。
「要塞は、最初はなかったかもしれない。途中で付け加えたと思う」
―要塞がないとゲームが難しくなりすぎるからか。
「それはあった。相手がもろに(ミサイルを)撃ってくることになり、難しいと思った」
―上空に時折登場し、命中するとボーナス点をもらえるUFOも魅力的だ。
「UFOは宇宙につきもので、画面の上がさみしいと思ったので入れた。(作品を)宇宙ものにしようと決めてから早い段階でUFOを入れることを思いついた」
大ヒットしても「あまり好きでなかった」
―当初はなぜ作品名を「スペースモンスター」と名付けていたのか。
「当時はピンクレディーの曲『モンスター』がはやっていたので、『スペースモンスター』と名付けた。(ヒット曲に)あやかったほうがいいと思ったからだ」
―実現していれば面白いタイトルだったと思う。
「私も面白かったと思っており、『スペースモンスター』というタイトルだったのならば、倍売れたのではないかと冗談で言っている(笑)。名前を変えられて非常に不愉快な思いをして、(ゲームへの)思い入れが少しなくなった」
―どのような経緯で「スペースインベーダー」に変更されたのか。
「タイトー上層部からのトップダウンで変えられた。(当時の)海外販売を担当する部署の意向で、本社の部長を通じて『名前を変えてください』という命令が来た。私が名前をスペースモンスターにすることを決めて、プログラムも終わった段階になってから名前を変えられた」
―スペースインベーダーは日本で登場した翌年の1979年に米国でも販売が始まっており、当初から海外戦略を考えての名称変更だったのか。
「海外戦略を考えて、名前を変えたのかもしれない。ただ、日本ではインベーダーという言葉はそれほどポピュラーではなかったので、私は反対した。だから、私は(スペースインベーダーが)何十年もの間あまり好きではなく、あまり思い入れがなかった。『いい名前だな』と思えるようになったのは、最近のことだ」
<【特集】「スペースインベーダー」誕生から40年(下)に続く>
西角 友宏氏(にしかど・ともひろ)1944年生まれ。大阪府岸和田市出身。大工道具を作る職人の家に生まれ、エンジニアになろうと東京電機大学に入学。卒業後に就職した音響機器メーカーを経て、1968年に太東貿易(現タイトー)子会社のパシフィック工業に入社。ゲーム機の開発者として活躍後、コンシューマーゲーム開発部の責任者などを経て1996年に退職。設立したゲーム開発会社ドリームスの代表取締役を歴任し、2012年からタイトーのアドバイザー。