<せんせい 山口竹子さん>「母であり、姉であり、恋人」 教え子の辻村さん 造船で身立てる「先生のおかげ」

 長崎市北西部の黒崎地区。高台にある辻村千賀良(ちから)さん(75)宅そばの墓地からは青く澄んだ角力(すもう)灘(なだ)が望める。水平線に沈む夕日が美しいこの地域の子どもたちが通う黒崎中が、長崎大学芸学部の2年課程を終えた山口竹子さんの初任地。終戦からちょうど10年の1955年、20歳の春だった。
 各家庭にはまだ戦争の爪痕が残り、貧しい住民も多かった。辻村さんの父も戦死。母は再婚したが、小学3年生の時に亡くなった。義理の父は定職に就かず、月に数回、家に戻ってくる程度。2歳上の姉と2人で、4畳半ほどの小さな家で暮らしていた。近所の木にシイの実がなっていると、辻村さんが木に登って揺らして落とし、姉が拾い、炒(い)って食べた。その姉も中学1年生の春に奉公先で破傷風にかかり命を落とした。
 小学5年生の辻村さんは、義父の妹である叔母に「何でもするから置いてください」と頭を下げた。叔母宅は雑貨屋で豆腐も作っていた。朝4時に起きて小さな体で大豆を石臼でひくなどして豆腐を12丁作り、水につけてから登校した。夕方に1丁25円で売って回り、空腹を満たすためわざと2丁だけ残して帰り、晩ご飯にした。
 黒崎中に進学すると、山口さんが担任になり、2年生まで受け持った。当時教科書は今のように無償ではなかった。辻村さんは購入できず、山口さんがそろえてくれた。運動会前日の夜には、運動着がない辻村さんの自宅を訪れて自分のトレパンを貸し、おにぎり用の米を置いていった。下関への修学旅行も費用を負担できない生徒はバスで長崎見学だったが、山口さんが辻村さんのバス代を払い弁当も作って持たせた。
 辻村さんは中学3年生で身長145センチ、体重38キロ程度と小柄だった。働きながら栄養を付けられるよう、名古屋市の精肉店に就職を世話したのも山口さんだった。卒業後「心の中に自分のろうそくをともしなさい」「牛のように確実に歩きなさい」などと書かれた手紙が届いた。辻村さんは「周囲に流されることなく、しっかりと自分の道を進んでほしい、との思いだったのだろう」と振り返る。
 その後、造船の職工になったが、19歳のころ、山口さんが心配して名古屋まで会いに来た。2人でテレビ塔を訪れた際、「先生、待っときない。3年たったら俺がもらいに行くから」と言うと、笑って聞いていた。

 山口さんが亡くなって2カ月後の67年9月、職工6人で「辻村組」を立ち上げた。夜遅くまで船内に残り作業をするなど懸命に働き、8年4カ月で「黒崎工業」を設立。多い時で90人ほどの従業員を抱え、中堅造船メーカーの1次下請けにまで成長した。
 61歳の時に事業を長男に引き継ぎ、両親や姉ら家族4人が眠る墓がある黒崎に戻ってきた。墓には水が入ったコップが五つ供えられている。一つは山口さんの分だ。そして時折、西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷にある山口家の墓にも参っている。
 辻村さんは言う。「竹子先生は、母であり姉であり恋人のような存在。先生のおかげで人並みに生きることができた。誰よりも生きていてほしかった」

山口家の墓の前で手を合わせる辻村さん(右)ら=西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷
黒崎中の卒業式を終え、記念写真に納まる山口さん(右)と辻村さん=1958年3月(辻村さん提供)
黒崎地区から望む夕日

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